高村光太郎展

千葉市美術館の「生誕130年 彫刻家 高村光太郎展」を見た。幼少からの、仏刻師で木彫家であった父・光雲のもとでの修業で、東京美術学校今の東京芸大に入ったころには、父も才能を認めるひとかどの作品を作れるようになっていた。薦められて洋行し、ロダンの影響を受けた。その頃の日本の彫刻は、芸術品と云うより工芸品的に一段下に見られていた。帰国後は評論、芸術論などの文筆活動をやったが、8年経て本格的に彫刻家の道を歩き出した。
十和田湖畔のブロンズ裸婦像は現地に2度訪れた。戦後の代表作で、完成までに試作された小型像、中型像、手の展示を今回見ることができた。絵の説明には全部「塑像 ブロンズ」と書き込まれている。ブロンズ像制作では塑像をまず造り、それから型を取ってブロンズを鋳込むという意味だろう。光太郎と云えばブロンズ像のように思っていたが、木彫もかなり残している。木彫を始めた理由が解説してあった。妻・智恵子が精神病、肺結核を患い、妻の実家(醸造業)が破産して経済的に苦しくなったが、時あたかも不景気で手ごろな価格でないと高名の作家でも作品が売れなくなっていたからと云う。広告には100−300円/1体で、何を題材に作るかは光太郎にお任せという風であったと思う。パンフの写真の蝉はその1つだ。まるで生きているようだった。木彫の大半が個人蔵というのも経過から頷ける。
戦災でアトリエが焼失し、かなりの作品が失われた。アトリエ以外の他所の所蔵になっていた作品も同様だろう。だからか、光太郎展ではあるが、光太郎の作品は全体の1/4ほどである。彼の中期の代表作は「成P仁蔵胸像」で、初期の代表作は「獅子吼」だ。いずれもブロンズ像だ。前者は日本女子大に所蔵されている。成P氏はプロテスタントの牧師で、その大学の創設者という。Wikipediaで見ると、生涯を女子教育に捧げた教育者のようだ。後者は日蓮想定の全身像である。立正安国論を振りかざして法難をなぎ払おうとしている上人の雰囲気を、誰しも感じ取れる作品である。芸大所蔵で、完成時彼は19歳の芸大生であった。
智恵子が結婚前は画学生であったとは知らなかった。病を得てから千何百点もの紙絵を残した。紙絵とは色紙をハサミで切って台紙に貼り付けた絵である。昭和12−13年に集中的に描かれた。放浪の画家・山下清の最初の個展は昭和13年と云うから、お互いに関係はなかっただろうが、展覧会になるほどの貼り絵作家が2人同時代に出ているのは興味深い。ただし山下はちぎり絵である。周辺にあって影響のあった作家の作品が並ぶ。光雲、ロダンは師匠格だ。ブールデル、マイヨール、荻原守衛、毛利教武、佐藤朝山、中原悌二郎。私の知らない名ばかりだ。併設の「所蔵作品展 高村光太郎の周辺」が1室を占めていた。光太郎は白秋詩集「邪宗門」の再版の装丁をやったり、砕雨の名で、文学雑誌「明星」の表紙を飾ったりもしている。

('13/07/20)