腎臓のはなし
- 坂井建雄:「腎臓のはなし〜130グラムの臓器の大きな役割〜」、中公新書、'13を読む。最近読む理系の教養書には生物医学系が多くなった。たいてい店頭の平置き新刊書から行き当たりばったりに選ぶのであるが、物理、化学、地学、数学系はあまり見あたらないし、工学系にもひところの勢いがないので、自然と生物医学系に手が行ってしまう。原子力系のように、まず政治主張ありきの本も鼻につくのである。腎臓について私が知っていることと云ったら、オシッコを作ってくれる臓器と云うぐらいの、ごくごく軽視されてきた存在だ。ただし副腎には関心がある。なぜなら、私が皮膚科で貰う塗り薬は、ほとんどが各種合成副腎皮質ホルモン配合だから。腎臓と副腎は隣り合っている。名前からして副腎(臓)と言うではないか。だが独立の臓器である、その他の臓器同様に腎臓にたいしてもホルモン経由で深く関わり合っている。
- 腎不全が重症になると人工透析を受けねばならない。東北大震災で透析中の患者が移動できずに犠牲になった事件があった。透析技術は膜工学の勝利で、それまでは死の病であった患者を救っている。がん治療に比べれば延命率はずっと高いのではないか。でも週3回病院に通い、合併症に苦しむ姿には報道の度に胸を痛めている。日本では生体腎移植が行われている。近親者から片方の腎臓を貰って移植する。でも1卵性双子の兄弟からでない限り、免疫の拒絶反応対策が大変だ。腎機能の要:糸球体は脳神経と同じく再生できない。年とともに減少し高齢者は100gほどに減っている。今年の正月に京大からヒトiPSから腎細胞を作りだしたという画期的な発表があり、マスメディアを賑わした。でも本書にはなぜか内容は載っていないし、将来の展望にも出てこない。ちょっと物足りない。あとがきは今年の4月に書かれている。
- 動物の解剖で臓器の構造と機能を知る研究は、遙かギリシャのヒポクラテスの時代にまで遡れるという。ローマ帝国盛期の医学書には、サルが実験動物として記述されているそうだ。本HPの「栄養学の巨人」にフランスの国葬になったベルナールの記事がある。彼は家庭的には不幸であった。動物愛護家の妻子が、犬の生体実験に猛反発していたからである。我が国に杉田玄白の翻訳書:「解体新書」が出版されるのが18世紀後半である。杉田らは刑死屍体の腑分けで西洋医学に目覚めた。この長い時間差。土建、建築、からくりなど、結果が目に直接見える技術は、どの民族でもそこそこに進歩するが、心の病(信仰、呪い、伝承、忌みなどからくる呪詛)を解き放す必要のある学問技術には、異端者とか心眼開眼者の登場が必要になると云うことだろう。
- 腎臓の解明には電子顕微鏡の登場が必要であった。透過電顕の高解像力を活用するためには、染色固形化試料を薄い薄い切片にして高真空の顕微鏡にかける。この臓器試料を超薄片にするのがミクロトームである。見事に切れた薄片の観察が、私の博士論文の骨になってくれたので、ミクロトームの名は懐かしい。理論的抽象的考察も大切だが、まずは事実を精密に観察してみよというさる大家の講演で、私の写真が引用されて驚いたことがあった。このHPに「生物と無生物のあいだ」という1文がある。そこに私が中学(旧制)時代に島津製作所に見学に行き、開発中の電子顕微鏡を見せて貰ったという記事がある。私の理系進学の1つの動機になった見学だった。腎臓は構成細胞の1つ1つまでが剥ぎ取られ検査されて、腎臓機能との対比が行われるまでになった。'04年に「細胞紳士録」(同名の読書感想がHPに入っている)が出版された。糸球体表面にしなやかに抱きつくタコ足細胞、フリルに飾られた尿細管細胞などの見事な色つきの電顕写真が、模式図や解説と共に載っている。
- オシッコは体内に生成した老廃物を水溶液として排出するのが目的だ。腎臓から出される老廃物の主成分は尿素である。タンパク質が分解されるとアンモニアが出てくるが、生体には猛毒なので「化学工場」の肝臓で微毒性の尿素に変換され、それが腎臓から排出される。老廃物を排出するもう一方の臓器は肝臓で、胆汁に乗せて腸へ出される。水溶性低分子量物質は腎臓で、それ以外は肝臓で排出されるものらしい。和風小便器は臭かった。オシッコは臭くないのだが、尿素をエサにする細菌が便器に付着していて、それがアンモニアを発生するのだそうだ。オシッコの黄色と大便の茶色は同根で、赤血球のヘムに基づく。赤血球は120日間ほど体内で活躍して、古くなると分解再利用されるが、ヘムは体外に出されるのである。
- 血液から物理化学的に老廃物だけ取り出すのは至難の業だ。左右の腎臓には200万個の糸球体があり、200liter/dayの割りで1次尿を作る。その99%を尿細管で再吸収する。膀胱に行くのは残りの1%である2次尿だ。水分のほか栄養分とかナトリウムの再吸収が重要な役目になる。
- 糸球体では毛細血管から3層のフィルターを通ってオシッコが漏れ出す。濾過理論式が載っている。何のことはない、例えば原酒から酒粕を圧濾機で濾過するときの設計式と同じだ。つまり糸球体のフィルターは物理的濾布だと言うことで、尿素は通ってもタンパク質のアルブミンはほとんど通らないという。アルブミンは血清タンパク質の中では最も分子量の小さい方だ。ほとんどとは1%程度という。電子工業では超高純水を作るのに穴径呼称5nmほどのマイクロフィルターを使う。アルブミンは6−10nmほどの大きさだから、人工透析器の成功が何となく理解できる。(本書には人工透析の話は一切出てこない。)原酒の濾過はほぼ電気的中性で行われようが、本書にあるとおり、血漿濾過では、フィルターもタンパク質も帯電(微陰性)していることが濾過に役立つ。糸球体は脳細胞のごとく再生不能と先に述べたが、その最大理由は、フィルターの最後の関門を作るタコ足細胞が再生不能だからだ。出口の毛細血管は一旦集まって輸出細動脈になり、尿細管が複雑に分布する髄質の中へ毛細血管となって入り込む。
- 尿細管の生理学は奥深い。なんとか実験結果と辻褄の合う説明が出来るようになったのは、20世紀も3/4ほど過ぎてからだという。キーワードは髄質内のナトリウムと尿素の濃度勾配のある蓄積、ATPをエネルギー源とするナトリウムポンプ、浸透圧、細胞膜の物質選択性などだろう。隣り合う細胞壁は微妙な接合と空間で、物質の選択的な輸送に役立っていることも上げておかねばならない。尿細管は糸球体に近い方から近位尿細管、中間尿細管(ヘレンループ)、遠位尿細管と集合管に大別できる。あとになるほど機能が複雑になる。政権がやっかいな問題を先送りするのと似ている。で、最後の集合管は単なる尿の通り道ではなく最終調節器官である。毛細血管は髄質の間質液を挟んで接している。直接膜接触している糸球体と違う点だ。再回収対象物質はまずは水、次にアミノ酸、ブドウ糖などの栄養素、ナトリウムなどだ。近位尿細管の仕組みを主に説明しておく。あとの器官では、キーワードに取り上げた機能の組合せが違っているだけだ。
- 細胞膜の輸送に対する働きは尿細管腔側と間質液側では異なる。間質液側の細胞内にはミトコンドリアが集合していて、ATPを生産する。それを貰ったナトリウムエンジンが、ナトリウムを間質液側に運び出す。入れ替わりにカリウムが細胞へ運ばれる。ナトリウムは間質液側の方が高濃度であるから、エンジンが必要になる。尿細管腔側では浸透圧差によりナトリウムと水が漏れ込んでくる。水の間質液側への輸送も浸透圧差による。糸球体から排出された水の50〜75%がここで再吸収される。ブドウ糖の輸送体も腔側と液側で異なる。アミノ酸回収も行われる。毛細血管への輸送は、濃度差が物を言うのだろう。「腸のふしぎ」(本HPに同名の書評あり)に見たように、小腸にも同じ働きがあるが、細胞の顕微鏡的構造も両者にあまり差がないそうだ。当然と云えば当然である。尿細管はあと間質液−髄質−内をグニャグニャと1往復半して、集合管から濃縮尿として出て行く。巧妙精緻な多成分系分離濃縮の機構に驚かされる。身体の内部環境維持のために、自律神経が副腎ホルモンを通じて、老廃物と水分の調節を行う点も忘れてはならない。
- 哺乳類は鳥類と同様に爬虫類から進化した。鳥類と爬虫類はアンモニア成分を尿酸に変えて排出する。タマゴは孵化に何日もかかる。堅い卵殻のタマゴの中で生じた有毒アンモニアは無毒で解けない尿酸に改質するに限る。哺乳類は両生類時代までの尿素による排出に里帰りした。体液量維持と成分安定に、水溶性が使える尿素の方が有利である。体液の塩濃度は海水より低い。海水生息動物では塩排出機構が必要だし、淡水生息動物では逆に塩取り入れ機構がいる。陸棲になると水分と塩の両方を経口で取り入れ、かつ体内で量と成分の調整をやらねばならない。腎臓はますます精巧になる。
- 哺乳類と鳥類は活動量の多い、エネルギー消費の大きい動物種だ。腎臓の基本構造は脊椎動物共通だが、高い柔軟性を腎臓の特に糸球体に持たせるには、高い血圧が必要だ。哺乳類と鳥類では心房心室がおのおの2つあり、肺とその他への血流を分けている。ヒトなら平均血圧が100mmHg、糸球体血圧が50mmHgとある。鳥はもっと血圧が高い。空を飛ぶには哺乳類を遙かに超す運動量になるからだ。ついでだが、鳥の体温が高いのは同じ理由である。一番下等な脊椎動物であるヌタウナギは1心房1心室で、血圧は5mmHgしかない。効率の良い糸球体にするには、毛細血管径が問題だ。赤血球が通り抜ける太さになる。哺乳類と鳥類では赤血球が無核化し、小型になって形を柔軟に変化できる。
- 糸球体の血圧が高すぎると、糸球体が壊れる。低すぎると機能が停まってしまう。体血圧が90−180mmHg以内だと、腎血流量は一定に保たれる。1つは腎臓内動脈を作る平滑筋のおかげ、もう1つは傍糸球体装置の働きだ。血圧増進には、後者の働きで作られたレニンがまわりまわって副腎を刺激するルートがある。高血圧の中にはレニンが絡んでいる場合が多い。だからレニン変換化学物質に対する酵素阻害剤や受容体拮抗剤の形で、高血圧抑制に効く薬が開発されている。
('13/06/29)