牛乳とタマゴの科学
- 酒井仙吉:「牛乳とタマゴの科学 〜完全栄養食品の秘密〜」、講談社BLUE BACKS、'13を読む。今時こんな題名で何が書いてあるのだろうというのが、この本を本屋で手にしたときの最初の感想である。だから買ったのかも知れない。
- 野生動物家畜化の歴史が書いてある。真っ先が犬で、オオカミが出自だ。狩猟を支援させるためであったが、食糧難が襲ってくるときっと食用にされたろう。朝鮮半島にはその名残が残っている。犬肉料理が現に残っている。それが15000年前だ。農耕が始まって8000年前頃にヒツジが飼われ始め、さらに2000年遅れて牛が家畜化する。さらに1000年経て、牛の乳搾りの図が古代エジプトの石棺のレリーフに現れる。馬は6000年前から利用されだした。
- 主題の一つ、牛乳は、人類が狩猟生活を止めて農耕定着生活に入ることが必須の条件だった。農耕はパン小麦やイネの発見から起こった。イネ科の雑草は強い。私の周辺には20種を超えるイネ科植物が繁殖している。種ごとに群生するから解りよい。都会では目の敵で、定期的に刈り取られむしり取られる。それでも日が経つとあるいは季節が巡ってくるとちゃんと再生してくる。でもパン小麦もイネもほったらかしでは再生できない。人為的に季節に合わせて種まきをし、イネなら苗を育てねばならない。ここが文明の突破口breakthroughであった。
- 酪とか酥と言う言葉は、手塚治虫の漫画から覚えた。前者はヨーグルト、後者はチーズとか練乳を指すらしい。長寿の妙薬としてあった。平安朝宮中では牛乳を飲む習慣があった。渡来人から伝わったという。でも朝庭の勢力の衰えと共にこの習慣は廃れ、採乳の技術は伝わらず、文明開化の時代まで空白が続く。だからハリスは困った。1升が米3俵相当だったという。牛はいた。家族の1員として暮らしていた。家畜という言葉は日本生まれで、文字通りお家に住む畜生だった。
- 牛乳と乳製品とは異なり、獣肉は仏法の忌避するところであった。明治5年にフランス料理を明治天皇が試食され、僧侶と尼僧に食肉を薦める公布がなされたとある。1000年の殺生肉食禁断の呪縛が解けた瞬間だった。でも肉の味は知られていた。確か鬼平犯科帳(江戸中期)には、元気付けの料理に関する興味深い問答がある。牡丹(イノシシ肉)かと問われて、正統料理人は邪道の肉料理はやらないと答える。脱線だが、そのとき牛も馬も出てきたのに、豚は出てこなかったと記憶する。本書には、江戸中期以降のオランダ医学の学習から日本での養豚が始まるとある。
- 昔、食糧難時代の到来を予測して、石油蛋白やメタノール蛋白が注目を浴びたことがある(本HPの「人工子宮」)。石油バクテリアやメタノール・バクテリアが生産するタンパク質には大きな欠点があった。アミノ酸バランスが悪いのだ。ヒトの身体を作るのに効率が悪い。遺伝学的に離れれば離れるほどバランスは悪かろう。必須アミノ酸のリジン含有量が比較してある。白米は牛乳よりずっと悪い。だからヒトには動物食がいる。でも特異的にリジンの多い植物がある。大豆。禅坊主は精進料理と云っても、豆腐からリジンを取っているからいつも元気。豆腐は豆乳から作る。豆乳のタンパク質はほとんどがカゼイン。牛乳のそれもカゼインが8割。カゼインは不思議きわまる化学物質だ。安定に水(乳)の中を泳ぎ回り、豆乳ではどうか知らないが、動物乳では赤ちゃんの骨に不可欠な、消化しやすいカルシウムやリンを運搬する役割まで背負っている。そこで別途に牛乳のカゼインの物理化学的構造を調べてみた(小野伴忠:「蛋白質 核酸 酵素」、Vol.34 No.11 ('89))。
- カゼインが親水性巨大高分子コロイドになっていることは誰でも知っている。タンパク質の親水性は低いから、ミセル構造をとる。カゼインとは総称で主なカゼインだけでも4種はある。相性の良い2種が2種のサブミセルを作る。疎水性のサブミセルを親水性のサブミセルが取り囲み、カゼインミセルとなる。親水性の理由は表面κカゼインのマクロペプチドである。サブミセルはコロイド性リン酸カルシウムを表面に吸着させて、サブミセル間結合を介在させている。胃で分泌されるキモシンはマクロペプチドをカゼインから切り離す。カゼインミセルは不安定になって凝固する。胃に凝固物が増えると満腹感を生じて子牛はすやすやと眠る。
- チーズはカゼインのキモシンによる凝固物だ。発酵工程で風味に違いが出る。日本では細菌系のプロセスチーズ(ナチュラルチーズ系)が主だが、カビ系のカマンベールなどもときには食卓を賑わすようになった。だがチーズは和食とは合わない。まだ欧米の1/10程度の消費だという。ヨーグルトはチーズの製造とよく似た工程を経て作られる発酵乳だ。ホモジナイズして乳酸菌によりカゼインをゲル化する点がチーズと違っている。乳酸菌の増殖で原料乳は等電点に達してクリーム化する。乳酸菌が、乳の乳糖を消費するので、甘味が少なく酸味が強いのがプレーンヨーグルトの特徴だ。私はゴム・ラテックスを凝固液でまずクリーム状態とし、さらにゴム分を析出させる実験をしたことがある。ほとんど忘れかけていたが、コロイド・サイエンスが食品化学でも重要であることを再認識した。
- 乳糖の説明を読んでいて、NHKの「サイエンスZERO」に紹介された希少糖D-プシコースを思い出した。甘さが砂糖の7割で、カロリーゼロのダイエット甘味料だ。乳糖は甘味は砂糖の1/6で赤ちゃんが飲み飽きない程度、ブドウ糖とガラクトースからなる2糖類である。後者はブドウ糖とコンパチだ。だからエネルギー源になる。たいして化学構造は変わらないのに自然の摂理は巧妙に出来ている。
- このHPの「チャイロスズメバチ」「かぶら矢」にオオカミに育てられた少女の話を載せている。若い頃にノンフィクション全集で読んだ。もののけ姫というアニメ−ション映画が評判になったころに思い出した。オオカミのメスがヒトの子を間違っても育てるはずがないと今では否定されているそうだ。イヌの乳成分表が出ている。イヌの子は体重が倍になるまでに9日だが、ヒトは100日掛かる。イヌの乳はヒトの乳とは栄養がかけ離れて高い。イヌの子が離乳するときすなわちイヌの乳が出なくなるときでも、ヒトの子はまだハイハイすら覚束ないのではないか。
- このHPには狂牛病とかBSEに対するコメントが数多い。「狂牛病」('02)には、「病原体は異常プリオン蛋白質で、核酸が感染に介在しないと云う。異常プリオン蛋白質が正常な蛋白質を異常に作り替え、自律神経を伝って中枢に達し、脳を侵して運動の機能を損なうという。ウィルスよりも原始的な生命と位置づけられるものなのか。残念ながらそんな議論は出てこない。」と書いている。本書にタンパク質が自己増殖し、発病に至らしめる特異な形態だとしている。
- プリオンは構造堅固で容易に破壊されない小タンパク質で、次々と消化系の網をかいくぐって、そのままでタンパク質吸収機能のある小腸末端のパイエル板を伝って、ついに体内に入り込む。自己増殖とはなにかは、本書でも明らかにされていないが、ガラクトースのブドウ糖化のような、異性化反応のようなものなのだろうと見当を付けた。本当かな? 牛は草食だ。牛に異常プリオンに対する免疫がないのは当然だ。イギリスの牛の狂牛病は危険部位の肉食をさせたためだ。でも元来が肉食動物のヒトが、対応する免疫グロブリンを持たないのはなぜだ? 狂牛病への疑惑はまだなかなか治まりそうもない。なにはともあれ吉野家は狂牛病対策緩和で一人勝ちだそうだ。
- 脂肪は細胞膜(脂肪球皮膜)に包まれた微細脂肪球のコロイドとなって、準安定的に水中に懸濁している。「準」は大型の脂肪球は水と分離するという意味で、市販牛乳では、ホモジナイザーを潜らせることにより、大型球を安定な直径1μm以下の微細球に再分割してある。逆に生乳静置でできる上澄み液(クリーム)を揺すれば大型脂肪球がさらに会合してついにバターになる。皮膜が破れてしまうのだ。アイスクリーム、ソフトクリーム、ホイップクリームなどはクリームの応用である。
- 後半はタマゴの科学ほかになる。「牛乳とタマゴの科学U」に記す。
('13/06/10)