ゲノムが語る生命像
- 本庶佑:「ゲノムが語る生命像〜現代人のための最新・生命科学入門〜」、講談社BlueBacks、'13を読む。著者は分子免疫学専攻の京大の先生である。本書は27年ぶりの改訂版だとある。27年前とは、ゲノムが3塩基を1単位とする遺伝暗号から成り立っていることが、私のような専門外の工学屋にも理解されだしたころである。27年間最大のトピックスは、ヒトDNAの全塩基配列が解明されたことであろう。32億からの塩基対が生命の源:タンパク質を造る。タンパク質は1000個ぐらいのアミノ酸残基を持つから、対応する塩基対の数は多くても3万x3x1千=9千万個だ。3万は生命体のタンパク質の種類だ。残りの塩基、全体の実に31億は何をしているのだろう。これが遺伝暗号を聞いて以来の私の最大の疑問である。
- 本書にはタンパク質合成にかかわる遺伝情報は10%ぐらいとしてある。でも大半が無駄という線は変わらない。なにか1個のタンパク質に相当するDNA部分には、開始部位と終止部位のある区間が対応していて、その区間の中にイントロンという無駄部分(介在配列)を沢山持っている。タンパク質合成には相当DNAからm-RNAを取り出すが、そのときにイントロンはなんとちょん切られる(スプライシング)という。無駄部分は隣のタンパク質対応部分との間にもある。無駄と書いているが、実はその無駄部分が転写されて、「マイクロRNA」としてm-RNAの翻訳や転写の制御に働くという。
- 生命の永続のための原盤とも云うべきDNAであるが、実際の生命活動はそこから取り出されるRNAが行うのであるから、原始生命の起源がRNAにあることはまず間違いがない。その証拠が具体的に列挙してある。生命はDNA化によって安定すると共に、進化が加速された。進化は遺伝子異変に基づくが、染色体DNAの減数分裂相同組換えにより有利な異変を子孫に伝えやすくしている。異変は放射線を浴びた時だけに起こるのではない。複雑きわまるDNA複製工程の中で、しばしば起こる間違いの結果である場合が多い。多分その一例のつもりで触れられているのであろうが、岡崎フラグメントの話は私は知らなかった。
- ヒトDNAの全塩基配列など二昔前までは、理論的には可能でも、気が遠くなるような話だった。'90年半ばに入って国際コンソーシアム(日本も参加していたと記憶する)と民間会社がそれに挑戦し、後者が勝利を収めた話はいまだに脳裏に留まっている。勝敗を決めたのは後者の情報処理技術であった。64億もの塩基配列を一息に決めてゆく方法などない。決められる1回はせいぜい1000個のシーケンス(断片化したDNA)だそうだ。ランダムなDNA断片をどう繋ぐか。断片の塩基配列の重複をコンピュータに捜させ、重なり具合から全体像を探るというstrategyを取ったという。全配列決定の研究は、DNA断片の配列決定がサンガー法による全自動化装置の開発により可能になったおかげで、出発できたテーマであった。その内にヒト1人の全ゲノム解析が、1000ドルぐらいで出来るようになるかも知れぬと書いてある。
- サンガー法は、1重鎖のDNAを鋳型に相補的な1重鎖のDNAを合成するときに、たとえばA(アデニン)の位置で合成が停まるように工夫すると、末端からいろんな長さの位置で停まったDNA断片を生じることを利用する。断片のそれぞれの大きさは電気泳動法で分析できる。サンガー法開発の背景にはDNA編集技術の革命的な発展があった。ゲノム工学は組み替えDNA技術とも云われ、今、安倍首相が声高らかに唱える創薬革新技術の重要な一環である。ゲノム工学の応用例に犯罪捜査が上げられている。犯人の髪の毛が1本見つかる。そのDNAを迅速に100万倍に増やす。その試料から塩基配列を決定する。これ以上の証拠はない。米軍のオサマ・ビン・ラディンの個人識別には、この方法が用いられたと言う。
- iPS細胞は本書でも大きな話題である。この革新性は分化で進んだ時計を逆回りさせた点だ。発生の段階に応じて遺伝情報は自己制御される。どの情報も一時に発現しては生命体にならず、部品器官のゴミ屋敷を造るだけだから。DNAのメチル化とヒストン修飾が主役だとはよく知られた事実である。自然の中ではその逆戻りはあり得なかった。山中4因子がそれを可能にした。
- 「サイエンスZERO シリーズiPS細胞(2)分化をコントロールせよ!」は昨年NHK放送の番組だ。NHKオンデマンドで見てみた。判りやすい説明になっている。iPS細胞が再生医療の未来をひらく「夢の細胞」になるためには、ねらった細胞に確実に分化を誘導する制御法の確立が必要だ。プラナリアは切っても切っても元通りに再生する能力のあることで有名な水棲動物だ。頭から尾への再生の方向性はどの切片でも変わらない。プラナリアには身体一面に初期胚細胞を備えており、体内には頭から尾の方向に向かって流れる分化引き金タンパク質の流れがあるという。発生分化にはタンパク質の濃度と種類が制御の鍵を握る。受精卵は最終的には200種もの器官に分化する。慶応大学で成功した心臓再生は段階ごとにタンパクの種類を換えてiPS細胞を成長させた。横浜国大では人工的にタンパク質を加えるのではなく、細胞分裂の時に肝臓周辺組織を同居させることにより、周辺からのコミュニケーション・タンパク質を頼りに肝臓を発生させることに成功した例である。
- ガンは後天的遺伝子病である。発生から死亡まで細胞は絶えず増殖を続ける。環境因子による遺伝子異変により増殖サイクルが暴走するのがガンである。抗ガン剤の比較的新しいタイプは分子標的薬で、ガン細胞で特異的に活性化されている酵素や受容体の阻害剤だ。従来の細胞一般に働く阻害剤は副作用が強いが、その弱点が改良される。最も注目を浴びているのは免疫治療法だと云う。免疫系のアクセル側を強めブレーキ側を弱めると、ガン細胞を異物と認識して殺しにかかる。著者らが'92年に発見した免疫系の賦活化療法で、昨年発表され目下治験中だという。
- エイズウィルス感染抵抗性の強いヒトがいる。免疫系に変異を持つ。ペスト大流行に生き残ったヨーロッパ人子孫が持っている。南北アメリカ大陸の先住民、豪州やタスマニア島の先住民には絶滅した民族が多い。それでなくても人口は極端に減少した。先住民側にすればインディアン狩りの結果という。異文化異宗教の民族をヒト扱いしない時代は確かに長く続いた。だが「新」大陸発見の先進民族側は、持ち込まれた欧米の病原菌がそれに免疫の無かった先住民族を滅ばしたと弁解する。免疫は後天的な性格を持つ場合が多いと思わねばならぬ。
- 獲得免疫についてかなりのページが割かれている。生体に対する異物の数は無限に近い。作れる抗体タンパク質の数は数が知れている。ところが経験のない相手に対しても大概の場合は抗原として認識し、続いて抗体を「創薬」する機能を免疫系が持っている。その進化の様子は、コンピュータの進化に類似していて全く面白い。私がPCを始めたころには、すでにOSにDOSがあった。フロッピー1枚分(1.44MB)の「一太郎ver.3」クラスだとDOSで十分だった。でもプログラムが複雑化するにつれ、さらに柔軟で応用力のあるOSのWindowsをDOSに載せて使うようになった。いまの一太郎は1GBほどもある。かの有名な脊椎動物の先駆動物ヤツメウナギの免疫はDOS段階、そのあとの我らはWindows段階である。脱線しすぎだが、本書に立ち返って我らの獲得免疫を眺めてみよう。以下は「ゲノムが語る生命像U」に記す。
('13/03/08)