神道は宗教か

島田裕巳:「神道はなぜ教えがないのか」、ベスト新書、'13を読む。島田氏は宗教学者で、彼の過去の著作の「創価学会」と「日本の10大新宗教」に対する感想文をこのHPに収めている(題名は「創価学会」「日本の新興宗教」)。人生最初の宗教行事がお宮参りで、記憶のはじめが多分法事であったから、神さまと仏さまは私の精神構造に深く立ち入っている。私が日中関係について絶望的なのは、彼ら中国人が幼少時代から反日教育を繰り返し繰り返し受けているという事実があるからだ。脳味噌の深層に打ち込まれた反日は絶対に一生消えない。それと同じことが私の神社仏閣への感覚の中にある。
どれほどのものかと、このHPを検索してみた。神社だと153件、寺だと174件、教会だと76件。だが教えの道となると様子が変わる。神道だと13件なのに、仏教だと95件、キリスト教だと86件、イスラム教だと62件、儒教でも25件を数える。この乖離の理由は明らかだ。本HPの表紙の写真に添えた俳句「ご利益は当てにしないで初詣」が雄弁に物語っている。漠然と敬神するだけで、すがる気持ちなど無いのである。すがらない一つの理由が本書のテーマ「教えがない」と云うことだ。
敬神は常識だった。だがそろそろこの敬神にも赤信号が灯りだした。私は四国生活が長かった。延喜式に載ったお宮を幾つも知っている。そんなお宮かどうか知らないが、四国のお宮の境内の樹齢1000年を超えるという大きなヒノキが次々に枯れ出したという。枯れたヒノキに対して業者が高値で引き取ろうと積極的に申し出てくる。調査すると、枯れたヒノキの生え際にドリル穴があり、そこから枯死薬剤が注入されていた。誰かが神木を殺して儲けようとしたことは明らかだ。腹立たしい犯罪だ。
明治憲法では宗教の自由を唱った。だが政府は神道は宗教ではないとした。上御一人の現人神(天皇)の支配統率は全てに優先する。上御一人の実質はそのときの権力者である。でもそんな国家神道は敗戦により消えて、今の神社本庁は法律上は宗教法人である。ギリシャの神もローマの神も、ゲルマンの神もケルトの神も、世界宗教キリスト教の浸透と共に姿を完全に消した。僅かにお祭りの中にその痕跡を留める程度だ。ところが神道は自然発生の神々の中では例外中の例外だ。堂々八百万の神が健在で、その数は減るどころか増えてゆく。私は荒城の月の岡城址のある竹田市で、広瀬神社に参拝したことがある。日露戦争の軍神である。大戦に勝っていたら日本は軍神神社で埋め尽くされていただろう。ヒトが神に祀られる。絶対神のいる一神教ではあり得ないことだ。
日本に浸透してきた世界宗教が仏教であったのが良かった。誰しもそう思うであろう。本書にもそれに似た表現が使われている。かの般若心経に云う。「色即是空、空即是色」と。色は有、空は無。私がこのお経の中で今も覚えているのはここだけだが、それは仏教の神髄である(本書にそう書いてあるのではないとお断りしておく)。本来の神道には何もない、教えもなければ神像もない、開祖もなければ宗祖もない、救済さえないのだ。かって私は、誰もおらぬ場所のさる有名神社の奧社のご神体を開けてみた趣味のグループの話を聞いたことがある、お札が入っていただけだったと聞かされた。それが仏教に食われなかった理由の一つだ。仏教は神道と正反対で全てが整っている、日本にもたらされたときには、すでに制度まで完備していた。両者の間に喧嘩が起こらなければ不思議なのだが、仏に「色即是空、空即是色」とやられたから、神さんは仏さんの生まれ変わり(本地垂迹説)となって、明治の廃仏毀釈まで千何百年も仲良く暮らすことになるのだ。
神は姿を見せないが、神が宿る場所はある。岩陰や磐座だ。後世の依代もその一つだ。その原始神道の姿を沖ノ島や三輪山に見ることができる。前者の一部の復元模型が歴博にある。後者には昔参拝に出かけたことがある。さすが山頂までは行かなかったが、現在も山全体がご神体である。神殿祭殿など太古にはそもそも無かった。吉野ヶ里遺跡に祭殿が再建されているという。卑弥呼の耶馬台国は大和か九州かと、考古学者や歴史学者の議論は絶えない。遺跡で判るのは柱の跡だけだから、地上建造物をどう想像しようと自由だ。観光資源化するには吉野ヶ里にそれらしき模造品を造るに限る。ということで宗教学者の常識などぶっ飛ばして、卑弥呼がまつり(政治)とまつり(祭祀)を執り行う祭殿を創作したらしい。魏志倭人伝にかくも拘る必要があるのだろうか。私が見に行った二昔前には、まだ復元?祭殿はなかった。
琉球神道の斎場御嶽は古くはないが、日本神道と通じる祭祀を執り行う。ここでも岩陰の空間が主祭祀場だ。常設の建造物など無い。このHPの「宮古島」「那覇市」「座間味島」「石垣島'09」「「街道をゆく」第2シリーズ」などに、御嶽に対する私の見聞を記載している。日本最古の神社上屋建築物は宇治上神社本殿(国宝)だそうだ。若い頃1ヶ年も宇治に通った。訪れたはずだが、記憶がほとんどないのは残念だ。宇治の神社としては、平等院近くに県神社というお社があって、そこの闇祭が有名であった。で、関心はむしろそちらの方にあった。ほか宇治神社もある。社格も宇治上神社は低かった。それはちょっと特殊な構造で、三棟の本殿が覆屋に覆われている。古いが11世紀後半の建物で、法隆寺より遙かに後だ。寺院建築は日本書紀、続日本紀に記事となっているのに対し、神社創建は一切顔を出さない。「ない」宗教の神道は建造物を必要としなかったが、「ある」宗教の仏教が輸入と共に壮麗な装置としての建造物を伴ったために、誘発されたように神社建築が始まったと筆者は云う。
神道はイスラム教と外見が似ている。TVでときおりイスラム寺院モスクが映る。徹底して偶像が排除されている。壁や柱の模様まで幾何学模様になっている。キリスト教の聖堂をモスクに作り替えることは基本的には簡単なことだったろう。逆もまた真なりだ。だから抗争にもかかわらず今に伝わる遺跡がある。仏教の僧侶とかキリスト教の神父とか牧師は聖職者だ。でも神主やイマームは俗人だ。私は十字軍物語に出てくるイスラムの英雄たちが、太守であり国王であるのと同時にイマームであることに違和感を覚えたことがあったが、聖域と俗域、あの世とこの世の間に不連続性のない神道やイスラム教では当たり前のことだとある。
イマームはモスクで聖典のコーランを唱える人であり、神主は儀式の執行を任務とする。Wikipediaによると、イスラム教スンニ派では、集まった信徒たちの中から、もっとも礼拝の模範として相応しいムスリムを選び出して、イマームとすることになっている。シーア派では血統でなり手が決まっている。神主も元来は儀式ごとに村人が適任者(当番制が多い)を選ぶが、大神社ともなると、代々神主を務める社家がある。上賀茂神社の社家が造る町並みは見事である。神社前の小川に沿って、石垣土塀で囲った家が30軒余り続く。Googleのストリートビューでがっちり見られるから、お試し下さい。賀茂七氏は神職世襲が続いているようだが、ほとんどの社家組織は廃れた。現代でも確たる地位を祭祀行事と共に存続させているのは、出雲国造の2家という。国造と云うからには政治と祭祀に跨った祭祀王という立て前だ。天皇家の向こうを張っている。卑弥呼の時代を今に伝えるとも云える。
もともとは社殿など造らなかったと言うが、今の出雲大社のそれは壮大だ。高さ24mで大仏の16mをはるかに凌駕する。昔(平安後期から鎌倉)の心御柱(杉)が出土したのは2000年であった。現在の建物よりも巨大であったと推定するに十分な遺構だった。伝承では今の倍、さらに4倍という話が伝わっている。神座まで100mからの引き橋が架けられていたという想像図が記憶に残っている。教えも救済もない神道だが、建物の周辺を圧する荘厳さ壮大さ神秘さが、それこそ神さびたなんとはなしの敬神の雰囲気を作る装置となっている。「ない」宗教だから中身は変わりようがないが、装置は有形だ。120年も遷宮が途絶えたり、朱塗りであったり、本地仏にあやかって神像を造ってみたりといろいろ変化があったようだ。神宮寺が大手を振っていたときもあった。大きな?には勧請、分霊によって諸々の神さまが主神の回りに集められている。
信者は手水で身を清め、作法に従って神々を拝礼して回る。時にお百度を踏むような信心もある。でも神道では、それらが「空」に対する祈りであることは皆判っている。平安神宮にお参りしたとき。アメリカ人らしい観光団が拝殿で物珍しそうに参拝者を眺めていた。カメラを構えているもの、ムービーのもの。私も京都観光の一環として平安神宮にきたのだったが、神社拝殿での拝礼柏手はごく習慣的に身についている。いつもは省略型で礼拝を済ますのだが、せっかくアメ公が見ているのだからと、正式に2礼2拍1礼を背筋を伸ばして演じてやった。でも祭神の桓武天皇を神として敬っているのではない。昔、ベルギー人のエンジニアが勤務先に技術導入でやってきた。彼に私の信仰を尋ねられた。神さまは身近におられる(神棚の話はしなかった)。でも仏教徒と答えた。教会(寺)には定期的に行くのか。全く行かない。お経を読むのか。全く読まない。でも、歴史的に生活環境が仏教を芯として出来上がっているから、伝統的に仏教徒なのだ。彼には私の宗教感覚が判らなかったようだ。あれから少々は仏教を囓ってみた。48ヶ所の巡礼も2回やった。どこかの西洋人が言っていた。仏教は宗教と云うより哲学だと。この歳になって、本書にもある日本人無宗教説は本当だと思うようになった。
訳の分からぬ宗教からの脱皮はいろいろ試みられた。吉田神道は、神仏習合説が行き渡った中世のころに、密教に強く影響された教義の一派である。明治維新後神道が国家の庇護を受けるようになってからは、影響力を失ったが、江戸幕府からは神職の総元締めの地位を獲得し、全国あまねく神社に重きをなした。私は合計して5年ほども吉田山近くの大学に通ったから、お馴染みのお宮である。旧官幣中社で、京都の中では際だって大きな神社ではなく、国宝もない。お祭りも特別著名というわけでもない。江戸期には儒学神道も盛んになった、外来文化の影響を排除した「国学」神道は賀茂真淵などを頂点とする学の流れで著名である。
先述の「日本の新興宗教」には数々の新興宗教が上がっている。神道系としては天理教、大本教、生長の家、天照皇大神宮教(踊る宗教)、璽光尊の璽宇、PL教などだった。このうち、戦前の神道13派に含まれるのは天理教だけだ。この違いは伝統の「ない」宗教から教派神道の「ある」宗教への変革の実質と、教団展開のめざましさにある。近所に天理教の教会が2院ある。天理市は石上神社参拝に行った途中見学したが、それは日本に珍しいと云うより唯一と云ってよいほどの宗教都市であった。既述の通り、天皇神格化と、神道の宗教性を否定し国民慣習として全国民を神に奉仕させようとする明治政権にとって、天理教などは目の上の瘤になった。神道を宗教化するのは許せなかった。天理教は手練手管を弄して政府の迫害から逃げた。それが今日の全国区の宗教に仕上げた。大本教は真っ正面からぶつかって開祖教祖を獄死させている。私は綾部市の大本教本拠の静かな佇まいを思い出す。
私が京都に住まっていたころ近くに泉涌寺があった。皇室の菩提寺で「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。江戸期最後の孝明天皇までの計25の御陵を境内に数える。京都にしては静寂な別天地である。敗戦まで営繕・修理費は全て宮内省が支出していた。ほかにも仁和寺、大覚寺などなど天皇家との関わりの深い寺院は数多い。明治以降は神仏分離令に並行して、天皇家からは仏教儀式は一掃される。宮中三殿が設けられ、陛下が直接祭祀を執り行われるのと同時に、宮中の仏間は位牌と共に泉涌寺に移された。
敗戦で、国家神道はGHQに否定され、明治以降の国家の保護はなくなった。保護喪失と引き替えに、国有地化されていたかっての社領は返還されてはいる。敗戦は大打撃ではあったが、「ない」宗教であるが故に、神道は融通無碍に生き延びる。現在のように、冠婚葬祭の特に生まれてから結婚までの儀式を神道が分担するようになったのは、古い話ではないそうだ。そういえば時代劇で、結婚式が神社で行われるのを見たことがない。
靖国神社は神社本庁に参加しなかった。神社本庁は宗教法人化させられたときのいわば神社総本山だ。靖国神社には246万柱の英霊が祀られている。内、今次大戦で新たに祀られた祭神が213万柱という。大戦による全犠牲者はさらに民間人100万が加わる。昭和天皇は戦後8回参拝された後、A級戦犯者合祀を機に取り止められた。私は首相の参拝中止はあっても、陛下の中止はあってはならぬと思っていた。少なくとも表向きには、陛下の御為に死んだことになっているのである。因縁をつけようと思えば何事にででもつけられる。中国や韓国の機嫌が悪いからとかなんとかのように、上目遣いに顔色を見るような(哲学に欠ける)姿勢では、相手の思うつぼである。

('13/02/17)