食欲の科学U
- この記事は本HPの「食欲の科学」の続編である。
- 酸素の常磁性を利用した核磁気共鳴利用のMRIなどを使うと大脳の活性化部位が判る。お茶碗一つを持ち上げる行動だって大変複雑な動作である。解剖学的にあるいは生理学的に説明できるのは大脳基底部あたりまでで、それから先のMRIなどに対応する機構は、どうしても抽象的観念的にならざるを得ないようだ。幼児がお茶碗から飯を食うまでに至る情景は、子育て経験者が皆知っているとおり、学習に次ぐ学習で、無意識に行動に移せるようになるまで、単位動作のプログラムと総合動作のプログラムがちょっとづつ脳内に仕込まれてゆくのだ。本書にはピアノの例がある。私ならさしずめ社交ダンスだ。お稽古事に例えてみると、その順序がよく分かる。
- 医療費高騰が国庫を脅かす。生涯医療費は肥満者の方が少ないと言う統計がある。肥満は寿命を縮めるからだ。そうだとすると、政府の金庫番は国民の肥満化に素知らぬふりをする方がいい。もちろんブラック・ユーモアだ。BMIは18.5-25ぐらいが世界の標準だ。日本人には肥満体の割合が小さい。結構なことだが、日本人は肥満への耐性が低いから用心せねばならぬ。インシュリン分泌器官の膵臓のベータ細胞の耐性が取り上げられている。日本人のBMI標準上限は25以下のようだ。
- 肥満にせよ拒食症にせよ神経性大食症にせよ、たいていは食欲に関する古い脳を指揮する新しい脳の反乱である。古い脳の視床下部からは素直にエネルギー状態、栄養状態に対する信号が出てくるのに、報酬系の評価形態が、例えば拒食症では食欲からスリムボディに上書きされていて、痩せ願望病が発症しているのだ。肥満の細胞学的解説がある。脂肪細胞は、本来はいつ襲ってくるかも知れぬ饑餓状態への備えとして、エネルギー(脂肪)貯蔵をする場所だ。体脂肪率20%の人は、50日は食わずとも生きられるほどらしい。だが脂肪が貯まり出すと内分泌器官としての役割に異常が出てくる。私は、聖徳太子のころの絵に描かれた美女が、豊かな頬をしているのに対し、当時の食糧事情を推し量ったことがある。人類はおろか生命体全体が未だかって経験したことのない事態なのだから、脂肪細胞だってそれに対する備えは出来ていないのである。その備えが出来た次世代ホモサピエンスが生まれるのは、何万年も後のことだろう。
- 肥満で脂肪細胞の善玉の分泌物質が減り悪玉ばかりが増加する方向だそうだ。ことに注目されるのが、動脈硬化抑制などに効くアディポネクチンの減少だとある。既述の後天形質の遺伝に関する発見はラットの肥満体質の研究から生まれた。本HPの「発生生物「学」U」「新しい発生生物学U」は'08年の記事で、iPS細胞研究に触発されて勉強した結果を書いている。でもその頃は遺伝に後天性形質は全くなかった。まだ学会で完全に了承された話ではないようだが今後が楽しみである。メンデル遺伝学に異を唱えて、最後は消えたかのように見えるルイセンコ(ソ連)学説(本HP:「光化学の驚異」「非線形科学」「科学の社会史(上)」)も形を変えて墓場から甦るかも知れない。
- 食欲に関する日常の疑問に答える章がある。この本を読むと、どんな物知りになれるか、どんな屁理屈がこけるようになるかを平明に解説してある。せっかちなお人はまずこの章から読み出すといい。既述の通り、食欲にはカロリー充足のほかに報酬系を満足させるという2面がある。「ながら食い」「早食い」「100ぺん噛め」への説明はこの部類に入る。「別腹」もその線上にある。食べ物の「好き嫌い」にはさらに学習や社会環境が入り込む。食感はもちろん報酬系の重要因子だ。人間だけはさらにさらに嗅覚がものを言う。私は東南アジア料理がどうも好きになれない。その理由の1つは匂いの悪さだ。中国料理、台湾料理についても高級なのはともかく庶民向けは今一と思う。それらに比べて日本料理は立派なものだと思うのは我田引水か。
- 「水太り」への恐れは無用で、「水腹」は食欲の一時凌ぎになるほどに食欲抑制作用があるのは、胃腸拡張の副作用だ。空腹になると「腹がグウ」と鳴る。胃が空になると空腹ホルモンのグレリンが出てきて脳にお知らせすると同時に、消化器系を活発に働かせる。それがグウだ。「腹時計」は規則的に飯を食うことを身体が覚えた結果でもある。元々備わった機能ではない。東大寺見学の時に、案内のお坊さんから聞いた話だったと思うが、奈良平安時代あたりまでは確か1日2食だった。あの時代の人は、日に2回しか信号を受け取らなかったのだろう。体内時計は細胞内の時計遺伝子による概日のリズムだが、標準時としてそれらを同期させているのが、24時間周期の脳の視交叉上核である。TVの動物番組で蛍の発光共鳴現象を見たことがある。タクトを振っている蛍がいたわけではなかった。脳内にはそのタクトがあると云うことのようだ。
- 私は昼飯のあと眠くなるのは胃腸に血が下がって行くためだと思っていた。これ間違いだそうだ。脳への酸素供給は生命維持の上での最重要事項で、どんな場合でも生命体は最優先で血を脳に送り込もうとする。眠気の理由は2つあって、1つは体内時計が昼あとは覚醒を弱めるため、2つは覚醒ホルモンであるオレキシンの作動性ニューロンが血糖値と共に働きを低下させるためという。1つ目は朝方や夕刻では、食後そんなに眠くならないことに通じる。山中教授がノーベル賞を取ってから、iPS細胞の応用が華々しく報道されるようになった。1/4には理研と東大で抗がん免疫細胞増殖に成功したというニュースが出た。病気の時の食欲減退の説明の中に、免疫担当細胞が出すサイトカインの1つのTNF(腫瘍壊死因子)αが食欲抑制に働くことが載っている。もともと脂肪細胞がもうカロリーは結構ですと云うときに出す信号ホルモンなのである。だったら、肥満体の持ち主はガンに強いのかという疑問が早速わいてくるが、それに対する答えは載っていない。
- 抗肥満薬はあるか。本HPの「ビールの科学」「不思議の植物学」「新しい発生生物学」「酒とつまみ」などに、ヒトにはアルコールの分解サイクルが2系統備わっていて、主サイクルが異常を来しても、副サイクルが何とか凌ぐ構造だと書いている。お酒に対してもこうなんだから、生命活動の基本の基本である食欲の制御回路の人為的コントロールは、絶対一筋縄ではゆかないことは感覚的に判る。神経に働く薬は覚醒剤と同じでいろんな副作用を持つ場合が多い。候補薬は出ては消え出ては消えた。まだ1種類しか認められた抗肥満薬はないそうだ。それも全能的でないことは明らかだ。
- 外科手術法が書いてある。胃バイパス法がある。脳手術による食欲制御法が出ている。刺激電極を異常の神経核や神経線維に取り付けて、ニューロンが追っつけない周波数の刺激を与えて活動を抑制する。脳は微妙である。うっかり電極位置を間違えたり破壊したりしたら大変だ。救いは脳が痛みを感じないことだ。局所麻酔で電極挿入口を痲酔し、あとは患者と対話しながらそろりそろりと手術を進めるのだそうだ。肥満が国家的大問題のアメリカで開発が進められている。40億年かけて生命は餓えに対処するシステムを進歩させてきた。飽食に対するシステムなどつい昨日まで必要でなかった。いわば飽食は神の摂理への反逆である。それでも研究は進む。
- 立派な一般教養書である。かなり高級だ。章ごとの参考文献が示されている。全部英語の研究報告、研究論文、総合論文のようだ。索引も充実している。新書として出てくる本では買って損したと思うものにしばしばぶち当たる。本書には10倍の値段であっても他にお勧めしたい内容が盛り込まれている。
('13/01/06)