こいさんにもてる


こいさんの「い」を高く発音すると「いとはん」つまりお嬢さんの末娘の愛称である。大阪船場あたりの代表的な方言だったが、最近は全く聞かない。良い響きだったのに惜しい。私が最後に聞いたのは映画「細雪」の中だった。古手川祐子のこいさんは行動的でやや軽薄なみずみずしさをたたえたお嬢さんであった。その古手川祐子ももういいおばさんの年齢である。
「い」を低く押さえてアクセントを幾分前の「こ」に持ってくるとお魚の鯉である。私がもてたのは残念ながらこちらのこいさんにである。場所は天赦園、四国の西端宇和島にある元伊達藩藩主の庭園である。飯を食うところもない場所で、やっと中華そばにありついた暑い日の昼下がりであった。
伊達家の家紋に因んで植竹に変化を持たせた珍しい庭園である。池の畔を歩くとざわざわと鯉が寄ってきた。少々の数ではない。庭の池に鯉がいるのは当たり前の風景で、よく行ったうどん屋などは池の上から鯉を鑑賞しつつうどんが食えるようになっていた。でもどこの鯉もおつにすまして近寄ろうともしないのが普通である。私の親は誕生記念に鯉をさるお宮の池に放したというので、そこの鯉には特別愛着を持って訪れもしたが、それはそれは無愛想な鯉たちばかりであった。だから鯉が慕い寄ってくる姿にすっかり気をよくしたのである。
私は大急ぎで入り口にとって返した。鯉の餌が売られていたのを思い出したからである。何袋あっても足りないくらい鯉はどん欲に餌を奪い合った。餌を撒き終えて歩き出すとまだ付いてくる。食わせて貰ってないのかなぁと一瞬私立財団の懐具合を推測する。そのとき私以外の鑑賞客は1-2人だった。
伊達博物館では朝鮮通信使関連資料を展示していた。いつか朝鮮使が江戸に行く途中に伊達藩に立ち寄ったときの記録である。まず動員された船の数に驚く。何十艘の数ではない、何百に上るのである。領国内の船を全部合わせてやっとの数ではないかと思った。村々の奉仕内容が記録されている。御膳の献立もきっちり詳細が記されていた。闘牛が盛んな場所だから牛肉があるかと思ったがどうも見あたらず動物食は魚と鳥だったように思う。鳥に鶴があったように記憶する。どんな味だったのか。食後のメニューに三品あってその一つがカステーラであった。松山はタルトだから一回ぐらいはタルトだったろうと探したが、無かった。わざわざ長崎から取り寄せたのか。
ともかく藩の財政が傾くほどの歓待をしたようだ。互いに鎖国状態で朝鮮使一行何百人かが文化交流の唯一の窓であった時代だった。友好関係を維持するのに日本側はずいぶん腐心したようである。
それが明治に入って突如変わる。私は侵略を受けた方の理由を考える。日本の侵略は当時の世界潮流の亜流である。力あるものが異民族国家を植民地として囲ってしまい自国のために搾取する。日本には同じ鎖国でも長崎に窓がありアメリカロシアの直接渡来があった。時の李朝には遠く欧州に起こりやがて恐ろしい勢いで世界を制覇してくる潮流にどれほど情報を持ちどんな判断をしていたか。隣国の近代化は直ぐに伝わったであろうが、その価値をnegativeに判断していたのではないか。殊にその裏にある思想について。
反撃の能力について。水際で一旦は阻止するだけの軍力を持っていたか。火縄銃主力でも戦国時代には世界一といわれた火力のあった日本の各藩は近代軍隊に対する反撃能力を一応は持っていたし火力の理解も高かった。完全鎖国に近く国際援助など宛にできない、それどころか周囲の清国も帝政ロシアも同様に植民地化をねらっている中で、もっとも頼りにすべき自国軍隊の整備をおろそかにしていたのではないか。
専守でなければならぬ軍隊で国を保つ方策を考えるとき、朝鮮半島侵略の過去は多くを示唆してくれる。

('97/08/29)