化石のDNA

更級功:「化石の分子生物学〜生命進化の謎を解く〜」、講談社現代新書、'12を読む。本の帯にネアンデルタール人とか太古のDNAと言う言葉が出ている。我々はネアンデルタール人の血を引いているか、あるいは彼らは混血不能の生物種であったか。ネアンデルタール人はヒト科ヒト属にあって20万年ほど昔に我らと分かれたというから、この問題は微妙だ。植物でも属内の交配は可能なときもありそうでないときもある。私の基礎知識はブライアン・サイクス:「イヴの七人の娘たち」、大野晶子訳、ソニー・マガジンズ、'01から得た(本HPに15件も引用している)。類人猿と我らが別れたのは600万年は昔で、我々は彼らより染色体数が1対少ない。どこかでこの減少が起こった。ネアンデルタール人が類人猿型だったら、クロマニョン人との間に子どもは出来てもその子は子孫を作れない。「イヴの七人・・」が書かれた時点のDNA知識では交雑は否定的だった。
日朝交渉が4年ぶりに再開された。重要案件は拉致被害者送還である。かって北朝鮮は死亡者の火葬遺骨を送って来た。「日本側は遺骨からDNA採取を行い遺族親族との照合で、全く別人のものだと断定した。国民は激怒した。」と言う過去がある。火葬が何℃だったかは判らないが、そんな過酷な条件でもDNAが(不完全でも)生き残り、しかも分析できることに驚いた記憶がある。土の中の20万年ぐらいどうということはなくなっているのかもしれぬ。サイクスが書いた時代からもうだいぶ経っているから、学問も進歩したことだろう。
化石から取り出せるのはDNAの断片ばかり(平均して塩基数150程度)で、染色体の数など数えようがないらしい。でもそこから我が祖先はネアンデルタール人と交配したという結論が出る。現生人類(ヒト)のゲノム配列は完全解明された。DNA断片をヒトのゲノムと対比すればどこの遺伝子のどこが違うか判る。ヒトもヨーロッパ人とアジア人、アフリカ人など人種ごとに異なる塩基を持つ場所が100万個はある。この場所は各人種の歴史を物語る。現生人種間で異なる場所をネアンデルタール人の対応する場所と対比すると、ヨーロッパ人とアジア人は数十万箇所でネアンデルタール人と同一種の塩基だった。アフリカ人はずっと少ない。現生人類は20万年前にアフリカで誕生し、出アフリカは6−7万年前だ。その頃ネアンデルタール人はヨーロッパや西アジアで生活していたと考古学は教える。アフリカに交配の形跡が低いのは考古学の結果と一致している。化石から取り出せるDNAはほとんどが汚染(雑菌など)生物起因だ。これらはまだヒトとの区別がしやすいが、ヒト経由のDNA汚染は全くやっかいだ。1%以下の誤差で、ネアンデルタール人DNAと言えるまでにサンプルを調整する、その難しさの記載は面白い。
ミトコンドリア・イブと言う言葉が出ている。アフリカのイブから7つのクラスターが分かれた。最初の娘は4.5万年前であった。これはサイクスの本の話である。ルイ17世はフランス革命のために父母を断頭台で殺され、僅か10歳で幽閉された牢獄の中で死んだ。その心臓が聖堂に保管された。王家資産とか名誉とかいろいろメリットがあるから、義経伝説的な話は絶えないという。死んだのは影武者だったと。その証明がミトコンドリアDNA比較で行われた。母の遺髪だけでなくこの一族の、つまりハプスブルグ王家に繋がる人々のデータで、獄死者が間違いなく本人であると結論づけられた。そういえばロシアのロマノフ王家も革命で一家が殺害された。アナスタシア王女を巡って似たような話があった。どちらも気持ちの良くない話だ。
このHPでは「日本人の起源」「日本人はるかな旅展」「日本人になった祖先たち」などなどで盛んに御祖先様のルーツを取り上げてきた。ことに最後の記事の種本の篠田謙一氏の著書は、DNA解析を骨格とした内容で、日本人は世界一酒に弱い民族であるところまで踏み込んで書いてあり、印象深かった。骨化石のDNA解析は国立遺伝学研究所のPCR法技術の応用による成功を世界の嚆矢とするそうだ。PCR法とは、骨化石に僅かに残るDNA断片の増幅複製法だ。耐熱菌から抽出したDNA合成酵素の採用がキーになったのだろう。北海道には縄文時代に4系統がある。本州縄文人よりも北東アジア人に近い。確かに考古学的にも北のオホーツク文化は南部の文化系統ではなかった。でも4系統とは?北海道アイヌは土地の縄文人の直系と云いにくいそうだ。複雑怪奇である。
過去の人骨からは実り多い成果が上がった。でもせいぜい万年前程度である。もっと昔の百万年、千万年さらには億年も昔の化石が出土しているではないか。恐竜のDNAだって取り出せるかも知れない。科学者はDNA断片とおぼしき資料を取り出すことに成功した。だがその結果は同時に取り出されたアミノ酸のD/L比から否定された。生体のアミノ酸はL型である。死後アミノ酸はラセミ化する。ラセミ化とパラに、PCR法によるDNA増幅複製は困難になりついには不可能になる。この関係からこれ以上ないと思われるほどに理想的な保存状態であった恐竜の骨からの抽出物も、恐竜そのもののDNAを保存できていなかったことと判明した。本書のハイライトと言える記事である。コハクの中の昆虫は完全なミイラ状だ。だがそれも外見だけでDNAまでは保存できていないと結論づけられている。
イヴへの遡及には、生きている人種についてDNAの遺伝機能のないどうでもよい?鎖部分の突然変異を辿る方法が道を開いたと記憶している。タンパク質も、機能性維持に不可欠でないどうでもよい鎖を持つ場合がある。ヘモグロビンは酸素の吸脱着に直接関わり合うヘム部分は最重要だが、グロビン部分は四量体立体構造維持に使われるだけでまあ心臓部ではない。変異には強かろう。長さはアミノ酸単位で140個あまりだから研究には手頃だ。ヘモグロビンやその類似物質は酸素呼吸の生物には共通だ。すなわちグロビンのアミノ酸が突然変異する速度は分子進化時計になる。この方法により、原生動物の進化系統樹に分子進化に基づく時間尺を入れることが出来た。受精卵が卵割を始め胚に成長する。原腸胚段階にいたって胚に凹み(原口)を生じる。動物分岐の最初のイベントは原口が口になるか肛門になるかだ。人間は後口動物で、昆虫は前口動物だ。この分岐時期が調べられた。先カンブリア紀だという。カンブリア紀は古生代最古の時代で、化石はこの先では出てこないと我々は教えられたものだった。動物分類は門、亜門、綱、目、科、属という風に行われる。その門に相当する分岐がすでに先カンブリア紀に行われていたという。いずれも驚愕のデータである。
本書には数々の研究失敗談が挿入されている。論文の真偽を見分ける力が研究者をaufhebenさせる。現役である著者でこそと思える記述が非常に楽しい。氏の今後の大成を期待する。

('12/09/8)