大人の休日倶楽部パス(東北スペシャル)U
- 秋田駅前からバスに乗り護国神社入口で降りる。ともかくも護国神社に参詣。その脇の秋田城跡政庁跡は多賀城同様案外に小さかった。東西94m南北77mとあった。焼失再建が3回は繰り返された。第1期は733〜770年間で、4mHの築地塀で囲まれていた。第2期は770〜800、第3期は800〜830年頃までと云う。再建の土塀は下部が崩れだしている。寒冷地のために壁土の中で凍結が起こるためと聞いた。そのためだけではないだろうが、2,3期では1部分は土塀ではなく、木塀に代えられている。平城宮跡と比べれば何もかも小振りで実用一本槍である。護国神社参道を歩く。イチイが結構植わっている。出土品収蔵庫を覗く。ボランティアガイドがいて、案内をしてくれるという。太宰府や多賀城を見学した話などして水準を合わせて貰う。ここに記載した事項にはこの方に教わった話が多い。感謝している。
- 水洗厠舎跡の話は歴博の講演会か何かで知っていた。外郭築地塀東門の外にある。浄化槽から豚の寄生虫卵が発見されたために、大陸からの使節団が往来に使っていたのではないかと推測される。同じことが太宰府の迎賓館遺構でも云えるという。説明書きのビラには淡水魚を中間宿主とする肝吸虫が比較的多いから、東北人より近畿地方からの人が使っていたと推測している。水洗と云ってもローマ遺跡の流水式ではなく、用足し後便器に甕の水を流す方式のようだ。つまりバッチ式である。秋田城跡の厠舎は寺院(四天王寺)跡に近いため、寺院が迎賓館を兼ねていたとも云えると聞いた。池や井戸跡が残っている。付近一帯の地名は頭に寺内がつく。この「寺」は四天王寺を指すらしい。これは後述の久保田城のガイドさんから聞いた。830年大地震で倒壊した後再建されたのだろうか。付近には大寺は現存しない。次の目的地が秋田県立博物館だと聞き、このガイドさんが自分の車で彼の地まで送ってくれた。なんとも親切なことで下車の時は名を名乗りお礼を言った。道路整備が良く渋滞が無く15分ほどで到着した。次の日に久保田城隅櫓の4Fから眺めると、秋田城址は小高い丘になっていて、城の立地場所として適切だったことが判る。
- 秋田県立博物館は入場料無料だった。秋田県の小中学生の学業水準は全国トップであることは有名だが、こんな心配りがあるいは影響しているのかも知れない。子どもの来館も多く、子ども専門のわくわくたんけん室もある。人文常設展では秋田藩の鋳銭が目新しかった。藩札も並んでいた。兌換性に欠ける藩札を大量に発行したために、経済混乱を引き起こした時期があったらしい。菅江真澄資料センターで江戸時代後期の当地の博物や生活の記録を見た。この学者の名は記憶にあった。自然展示室には気がつかなかったと言うよりも時間がなかった。企画展示室では「古イイ看板」をやっていた。研究員の解説を聞くことが出来た。広い企画展示室一杯に看板が並んでいた。かなりが看板コレクターからの借り物という。江戸時代の判じ物の看板は面白かったが、時代が過ぎれば解説無しでは判らない。私の記憶にあるのは、松山容子のボンカレーのホーロー引き看板あたりからだ。実物はないが、江戸期以前にも看板があったことが絵巻物から推測できる。
- 秋田の先覚記念室では「ツツガムシに挑んだ秋田の医師たち〜田中敬助・寺邑政徳〜」展が開かれていた。また2時から秋田大学名誉教授・須藤恒久氏の「ツツガ虫病 昔と今」という講演があった。ツツガムシがもたらす風土病(高熱を発して死に至る)として恐れられてきたツツガムシ病の退治に活躍した医師の業績紹介である。
- 現在では、病原体のツツガムシ病リケッチアを持つツツガムシの幼虫が人体に吸着し、体内に病原体が入り込んだときに発症する(法定)感染症と判っている。リケッチアとは、単独で増殖が出来ないが、ウィルスとは異なり、クエン酸回路を構成する全ての遺伝子を持つ寄生菌であるとWikipediaに載っていた。発疹チビスの病原体もこの部類という。面白いのは、病原体の分布で、ツツガムシすべてにくっついているのではないから、無害なツツガムシもいると云うことだ。フグ毒と同じだと思った。抗生物質テトラサイクリンが特効薬だ。18世紀末にはケダニ(ツツガムシ)が原因だと判っていた。病原体を持つツツガムシには何種類かがある。須藤先生は新しい迅速な診断法を確立された。感染後のIgMの増加の話があったから、血清抗体検査なのであろう。講演は20分ほど時間をオーバーして、2時間近くになった。業績を誇示されるのはいいが、繰り返し繰り返しくどいので、あとの予定がある私はいらいらした。
- 旧奈良家住宅を見に行く。博物館の受付で地図を貰って大急ぎで歩いた。大きな屋敷である。博物館からの道側に「奈良」の表札を掲げた大きな家があったが、末裔なのかも知れない。ここら辺は裕福な農家が多いのか、奈良家以外の家も立派だった。あとで旧奈良家に匹敵するような屋敷がとなり部落にあると聞く。ただそこは非公開だそうだ。屋敷は博物館分館になっている。女性職員が案内してくれた。400町歩(=400ha)を支配していたという。日本の農業はヨーロッパ並みの耕地面積20haを目標にしているが、いっこうに改善されずいまだに平均1haしかない。この1haの農家に欧米並の生活をして貰うために、消費者は所謂バラマキと保護関税で実態の10倍を支払っている。農地解放で零細農家を大量に作ったのは誤りだった。小作救済は別手段にまかせ、日本全体が旧奈良家のような400haという大農経営方式を今日まで続けていたなら、FTAもEPAもTPPも簡単にクリアできて消費者はハッピーだったろう。
- 旧奈良家自体は8名の家族12人の使用人計20名で家を切り盛りしていたという。家畜(馬)の囲いが土間の一角を占める。3頭分取ってある。降雪地帯や冬季が寒い地方では屋内に家畜を入れるようだ。本HPの「遠野物語」「五箇山定期観光バス」「丹波路」に出ている家はみなそうだった。同じ京都でも少し南になると、家畜小屋は別個に母屋とは切り離して建てられた。上座敷の大きな仏壇が印象的だ。庭は広いが手入れされていなかった。味噌蔵、座敷蔵、南米蔵、北米蔵と蔵が続き、和風住宅と明治天皇北野小休所がある。大きな母屋があるのに和風住宅を明治中期になってから建てているのはなぜか。生活の便からだろうか。小休所には陛下が4分間休憩された。そのためにわざわざ建設したらしい。このHPの「新潟観光」に北方文化博物館の印象を載せている。豪農の館である。1370余町歩の田畑を所有していたというから、旧奈良家よりさらに規模が大きい。あそこには小作の家や自作農の家が移転されていて、比較して面白かった。旧奈良家住宅にはそんな展示はない。
- 歩いて追分駅に至る。博物館近辺は小泉潟公園と言い、男潟女潟があって心休まるたたずまいである。
('12/07/01)