「街道をゆく」第2シリーズ
- 司馬遼太郎原作:「街道をゆく」3部建てのNHKオンデマンド配信最後のシリーズである。全部で6回放映された。1回が50分であった。各回とも見応えのある作品に仕上がっていた。
- 「第1回 オランダ紀行」は長崎出島の映像から始まる。私は何回か長崎を訪れているのに、とうとう出島を見損なったのが残念だ。あの狭い領域はいまは博物館になっているはずだ。オランダ東インド会社のマークを掲げる石造りの門が象徴的だ。常駐のオランダ人は12-3人だった。これが鎖国の日本に西洋事情をもたらす唯一の窓として歴史に重大な影響を与えた。'89年に司馬遼太郎はオランダを旅行した。3回目と云った。彼のオランダ紹介はライデンから始まる。シーボルトが帰国後その地の大学で日本学を始めた因縁から、ライデンを選んだらしい。
- ライデンは世界初の市民独立戦争を、フランス革命などの200年も前に、スペインに対して戦った土地である。日本では信長の時代だ。70年後には完全独立を果たした。市民は、世界初の株式会社オランダ東インド会社により、海外交易に乗り出す。日本は、鎖国による他国の締め出したから、オランダに有利な貿易相手となった。ヨーロッパのたいていの国の都市大広場は宮殿や教会に面しているが、オランダでは東インド会社の建物に面しているという。レンブランの傑作:「夜警」が出てくる。この夜警だけでなく、武装市民の群像を描いた大作絵画はこの国に多い。我が手で我が土地を守る。海抜ゼロm以下の土地を堤防と干拓及び風車で造成したオランダ人には、あのころ土地バブルで踊っていた日本と違い、皆の土地という信念が根付いている。銭と切り離すべきとことは切り離す。300人はいるという広い日本人学校の土地借用代金が年70円という。結婚式は教会ではなく市役所で司祭ではなく市長が執り行う。市民が造った土地の市民が勝ち取った国態という意識が、随所に見られる国柄である。
- 「第2回 沖縄・先島への道」では沖縄、石垣島、竹富島、与謝国島が紹介される。中心は竹富島だ。司馬遼太郎は昭和49年('74年)に一帯を訪れた。映像は'89年に放映された。遼太郎は太古の先島から本州あたりまでの住民を原倭人とした。竹富島のミタキ(御嶽)を祀る女司祭ノロ(?女)は、神道の原型を彷彿させる。原始神道での司祭は本州でも女であった。竹富島では17世紀まで鉄器を知らなかった。効率の悪い木製農具による生産力の低い農業は、野心と好奇心に溢れた現在と異なる、かっての欲の少ない調和の社会風潮の基盤であった。鉄器がいかに革命的材料であったかを、土地に伝わる狂言が表現している。全く判らない土地の言葉で話が進むが、仕草と解説でかろうじて意味が分かる。島津からもたらされた文明の利器であったろう。だが島津の支配は苛酷な収奪を伴った。
- 石垣島の石垣邸は島津が来てからの琉球王国の代官屋敷で、日本風の枯山水の庭が残る。首里は先島諸島住民に人頭税をかけた。与謝国島には人升田が残る。男を全員この田に集めて、「人升」する、つまり働けないものを刎ねるという家畜扱いがまかり通ったらしい。冒頭、首里城の石畳と城壁が伝統家屋を背景に映し出された。沖縄戦で沖縄島民は1/4が死んだ。人口密集地での陸上戦などあってよいものかとつくづく思った。戦火が及ばなかったら首里は奈良にも勝る風情であったろうにというナレーションは頷ける。私は与謝国島以外は一度ならず訪れている。だが'23年前の原倭人の息吹を感じる情景に触れたことはなかった。映像ではあちこちで聞いた方言ですら、今はほとんど聞けなくなっている。
- 「第3回 奥州白河・会津のみち」の中心は幕末の会津藩の悲劇である。NHK大河ドラマ「春日局」に、初代藩主保科正之が秀忠の御落胤で、徳川家への絶対忠誠を家訓に入れた特異な体質の藩だと出てきた。この映像にも家訓は一つの心棒になって出てくる。NHK大河ドラマ「獅子の時代」がいまCS有料テレビで放映されだした。主演の菅原文太が演じるのは、戊辰戦争に敗れ、藩ごと斗南(下北半島)に流罪になった会津藩士の流転の反骨物語だ。籠城前に自刃した女たちとその辞世の歌、白虎隊の自決、大変革を好まない孝明天皇よりの過激派暴走阻止に関する感謝状を、朝敵にされながらも明治後年まで公にしなかった話など、この映像に紹介される話のかなりはすでにどこかで聞いた。斗南へは1.4万人あまりが移転したそうだ。破れたとはいえ、家訓を中心に凝り固まった精神団体を明治政府は処置に困り、中央に近くには置けないと危険視したところもあろう。
- 団結できた一つの理由に、藩士の8割が100−400石ほどの中級武士だったことが上げられている。文明社会では中流階級が大きいと社会は健全で纏まりやすいという話が紹介される。高度成長期の日本は1億が総中産階級と云われた。政治とか駆け引きに疎い誠実で純粋な士風の東北武士が、そもそも権謀術策の渦巻く京都で、尊皇攘夷という逆風に晒されながら、京都所司代を勤めるなど無理な話で、藩主松平容保は幕府に対し任命を断り続けたし、家老もお家の崩壊に繋がると危機感をあらわにして藩主を諫めたという。藩側は判っていた。慶喜の戦意のなさ、容保を推挙して止まなかった春嶽の変わり身などが、本来は徳川の1家臣だから負うはずもない朝敵の筆頭にされ、会津藩の悲劇を導いた。冒頭には白河の関にある美姫を祀るお社の静かなたたずまい、「摂関政治」に紹介した東北の黄金を産出した鉱山あとの映像が流される。オランダ商人を惹きつけるほどの金が西洋文物を輸入させることとなり、日本文化の進歩をもたらした。
- 「第4回 オホーツク街道」はオホーツク人を追う。オホーツク人を知らないわけではない。北海道オホーツク海沿岸に居住し、アイヌと棲み分けていたが、大和民族とは直接の接触はなく、そう遠くない昔に忽然として姿を消した。居住した期間は300年とも500年ともいう。司馬遼太郎が旅したのは'91年からだそうだ。放映は'99年だ。オホーツク人はツングース系とする学者が多いらしいが、イヌイット(エスキモー)系という人もあるらしい。日本以外のもので紹介されたオホーツク文化は、樺太の博物館所蔵品だけだが、オホーツク海沿岸全域にわたるという。出土品からは日本とも大陸とも交流があったことを思わせる。北海道遺跡からは7世紀の蕨手刀が出土している。先に先島諸島は17世紀まで石器木器文化だと知り驚いたが、7世紀には日本からの輸入だったかも知れないが、すでに鉄器を使用していたらしいとは別の驚きだった。海獣の骨を素材にした動物彫刻はリアルだ。土器に残された海獣の飾りなど見ても、彼らが海獣狩猟民族であったことは明らかだ。アイヌよりも骨格が優れているという。
- 南樺太は40年間ほど日本領だった。その西岸に住んでいたアイヌは、敗戦で北海道に移住した。彼らが話した樺太アイヌ語は今はもう死語になった。しかし数奇にも親が日本化を嫌ったために小学校に通わなかった女性が、樺太アイヌ語を日本に伝えた。最後の話者が話す録音テープが研究資料として残されている。彼女は今海に向って土葬されている。伝統に従って埋葬するように遺言したという。弱小民族の運命を受け入れながら毅然とした生きた様が感慨を与える。
- 「第5回 十津川街道」は奈良南端の山村十津川村が舞台である。その歴史は特異だ。明治にいたって日本に組み入れられるが、十津川共和国とでも云うべき合議体制の免租地帯であり続けた。豊臣秀長の免租状が残っている。彼は大和100万石だった。宛先が十津川組中とあり、頭立ったものがおらずに合議制を守っていることを思わせる。代償は兵力拠出であった。中央情勢に詳しく聡い村民への情報提供役は、村人が奉仕する玉置神社の修験者(山伏)だった。壬申の乱から伝統的に継承されている。維新では御所警護に200名を出兵した。1000名を数えた援軍であった時代もある。自腹出兵が基本だった。林業狩猟を生業にし、遠矢をうたわれた純朴勇猛な兵士だった。平地中央の争乱では弱小側が十津川兵を当てにする。南朝側の楠木正勝はここを拠点として戦った。彼の墓は今も手厚く祀られている。天誅組騒動では逃げ込んだ志士が、十津川兵を率いて高取城を攻めた。この急進的な勢力は朝廷に危険視され朝敵にされる。明治が明けて2000年来の免租の特権を失った。維新の功績にたいし全戸が士族扱いになり、功労金を貰う。功労金はほぼ全額を教育設備の充実に充てる。
- 谷を跨る全長が200mを越すという吊り橋が紹介されている。谷を挟んで国道とは対岸の部落36戸が、1戸16万円を支出して造ったものという。現在の金額でいくらだろうか。公への負担無くしては村が成り立たないという意識が、現在に生きている。富山県であったか水害で山裾川向の夫婦だけの1軒屋が孤立した。県は壊れたその1軒だけのための橋の修理に何百万円かを支出した。こんなに贅沢に予算を使っていては、地方交付金がいくらあっても足りないと思ったことがある。「NHK SP 天空の棚田の生きる〜秘境 雲南〜」では、文字通り1人の手抜きが棚田全体の機能を毀すことを、文句なしに納得させた。山里では現実具体的にそれが身に浸みて判るのだろう。平地でもちょっと考えれば判ることなのだが。明治22年の大水害では、住民2600名という大人数が、誓約書をしたため、北海道原野にその年の内に移住した。新十津川村で立派に成功した。その紹介は以前にもTVで見ている。共同体精神の大切さを伝える。
- 「第6回 愛蘭土(アイルランド)紀行」は、ケルト民族の末裔たちを取材する。イギリスは1938年に800年に及ぶ植民地アイルランドの独立を承認した。植民地化は、クロムウェルが老若男女を問わずカトリック信者を皆殺しにしたころから本格化する。'99年放映の番組だが、その時点から150年昔にジャガイモ飢饉に襲われて、新天地アメリカに150万人の移民を余儀なくしている。アイルランド系アメリカ人はいまや4000万人。ケネディ、レーガンと2代の大統領を出した。彼らはしかし移民後数代にわたってアメリカの底辺の生活を強いられた。植民地では工業などの近代産業はお呼びでなかったから、移民も近代への訓練が足らず、社会になじめなかったのであろう。
- 伊東章治:「ジャガイモの世界史〜歴史を動かした「貧者のパン」〜」、中公新書、'08(本HP:「ジャガイモの歴史」)にはジャガイモがヨーロッパことにアイルランドにとって恵みの食用植物であったことを示すが、南米から持ち来たったジャガイモが150年前不明の病気で不作続きになった。「ことに」と強調した理由が、映像で紹介されている。九州ほどの土地全体が泥炭地帯で痩せているために、満足に生育する植物はジャガイモぐらいなのだ。岩を割りそれを表土の飛散保護壁にして畑を守る。今は結構な家屋に住むが、食うや食わずの時代には、我が国の寒村も顔負けの悲惨な住居であった。抑圧され貧素な環境で自然の脅威を受けながら生きる。不屈の頑固で負けん気の強い民族の特徴が育った。
('12/04/17)