摂関政治
- 古瀬奈津子:「摂関政治〜シリーズ日本古代史E〜」、岩波新書、'11を読む。本書は日本史の9世紀初頭から11世紀末頃までをカバーする。平安京遷都ののち徐々に藤原氏が勢力を伸ばし、道長で摂関政治が絶頂期を迎える。基盤であった荘園制が関東あるいは東北の争乱を契機とする武士の台頭で蝕まれ出す。そんな時代である。このHPの「千葉一族海上氏」は銚子あたりの荘園の13世紀のころの状況を物語っているが、その頃には中央貴族の支配力はもうほとんど失われている。先日NHKシリーズ番組「さかのぼり日本史」で摂関時代を取り上げていた。ドラマに描くときはどうしても権謀術策が中心になるが、その背景の大きな時代の流れをこの本に期待した。
- 律令制の中には摂政も関白もない。だが今NHKオンデマンドで見ている「春日局」では、徳川秀忠が世嗣家光の正室に摂関家(鷹司家)から迎えると決める下りがある。将軍家は大名とは同列でない一つの演出である。17世紀初頭には摂関家は世襲家系として確立していた。大河ドラマ「平清盛」では、まだ摂関家から嫁取りをするような箔付け政略結婚は、不遜な考えだったのだろう。藤原氏は承和の変から外戚になった。飛鳥以来の競争相手(大)伴氏橘氏は後退する。応天門の変では大納言の高位にあった伴善男が失脚し、伴氏は回復不能になった。天皇家賜氏源氏は手強い相手であった。だがこれも安和の変で骨抜きにされる。橘氏が決定的打撃を被るのもこの安和の変のようだ。菅原道真はそれ以前に取り除かれている。
- 幼帝代行が摂政で、帝元服後が関白である。あまり知られてないが準関白職に内覧がある。いずれも天皇の存在を前提とし、天皇を越えるものではないが、実質は仮面を付けた天皇で、真の天皇が長ずるに従い、両者に時には軋轢を生じる。宇多天皇の後期、次の醍醐天皇とも摂関を置かなかった。幼帝朱雀天皇から復活し、冷泉天皇にいたって常置化される。天皇家内の権力構造も微妙である。帝が若年であれば上皇からの家父長的な干渉は、儒教思想の浸透とともに当然出てくるが、無視できないのが母后の影響という。上皇が内裏から出て宮城外に居住したのに対し、母后は天皇とともに内裏に住み、幼い間は後見した。摂関と「母后」によって支えられた時代だという。母后令旨など初めて聴く単語だった。なお中宮とは元来皇后の別称だが、道隆のころ別位になったという。同格であろう。源氏物語や枕草子のころはもう別位だったのだ。家光の妹・和子は女御から中宮に上がっている。
- 皇后定子と清少納言に訪れる悲運は有名だ。同じ一条天皇のもう一人の后(中宮)彰子は道長の娘だった。その入内の付け人が、女房40人、童女6人、下仕6人だったと出ている。紫式部はまだその中に入っていない。本書は時代の女性について詳しく書かれている。「家」が成立すると、朝廷の地位や財産は父親から長男に譲られるようになる。「家」は経営体でもあるが、摂関期にはまだ未成熟で、正妻でも実家の墓地に葬られた。通い婚がよく知られているが、正妻とは同じ邸宅に住むケースが多い、子は妻が育てる。地位は男子に譲られるが、財産は女子にも分与されている。女の発言権は相応に強かったようだ。
- 藤原兼家の家系が宮廷を制する。三男・道長にはツキがあった。正室の間に儲けた娘は3人までもが后になった。幼帝の即位式では道長は母后とともに御簾中にあった。他の公卿たちは、朝庭にあって(大極殿高御座の帝とともに彼らをも見上げ)拝礼する。後一条天皇、後朱雀天皇が外孫となる。もはや準天皇家の立場だ。道長一門が摂関家として公卿の中でも別格の扱いになる。律令制での政治の要であった太政官がおいおいと実権のない官位になり、摂政関白・内覧とゥ司・諸国とのパイプが太くなる。官奏から奏事へと政治の実体が変わって、摂関家の権力が強化される。豊臣徳川政権交代の時に将軍は盛んに豊臣あるいは外様大名に賦役を課すが、道長も寺の建立とかの造営事業、儀式や行事への参列要求を通じて公卿たちに負担を強いる。文化的賦課というのがある。それまで宮廷詩人や学者が担当していた和歌や漢詩を公卿が作らされる。「我らは凡人(非殿上人)ではない」と怒っている日記もあるそうだ。引退後も「大殿」道長として隠然たる影響力を隠さない。中世に入ってからの院政の実体は、道長のころの摂関政治の発展と思えるものも多いという。
- 飲み食いしながら大事を打診し合う。どの国でも饗応は社交というかコミュニケーションの手段の一つだが、我が国ではことに大切にされる。平安朝あたりからそれが認識されるようになったらしい。私が現役のころでも、やたらとともに飯を食いたがる上司に閉口したことがある。本書に饗宴についていろいろ紹介してある。なかなか面白い。天皇の正式の昼餉は、大テーブル2脚に椅子だ。食器は一切が銀製品。陪膳つまり給仕に殿上人が数人当たる。これは律令制が支配していた初期の話で、中国様式の直輸入だろう。摂関期に入ると国風化したとある。
- 行事とか儀式は実質支配の秩序をvisualにしてくれるから相互確認に大切だ。平安宮には国家的儀式の場として朝堂院、国家的饗宴の豊楽院があるが、天皇がそこで百官を前に会合を主宰するようなケースは、後世ほど簡略化され数も少なくなってゆく。天皇の政務を司る場所は大極殿から内裏へ、内裏でも正面の紫宸殿からその奧の清涼殿へと移っていった。政治には、摂関、内覧、公卿、殿上人、蔵人などの、律令制にはないいわば天皇との私的関係が重視されるようになった。新年元旦の朝賀の儀には総勢900人ほどが集まったと云うが、摂関期にはすたれて小朝拝に取って代わられる。小朝拝ではせいぜい60名ほどという。
- 紫式部日記の内容が詳しく説明してある。清少納言に対する辛口の批評は有名だが、かなりが中宮彰子の実家における出産事情の記述に費やされているとは知らなかった。源氏物語のかなりがその頃の著作という。紫式部は受領層の中級貴族出身で、女房としては上中下の中の中臈であったようだ。身分には実家の位が物を言うらしい。役付きではなかった。一条天皇崩御で彰子が皇太后となってからも、宮仕えを続けている。筆者は女流文学が花開いた理由に、「母后」に見られる女の発言権が背景にあるとしている。女房文学はその後も続くが、「家」が確立し女権が低下すると光を失う。
- 福祉・健康とか交通・道路とかは公共事業として国家財政の重要案件である。それは現代の話で、平安期にあっては、なかなか飲み込めない話だが、神事や仏事がそれに相当したという。元々は民衆から発祥の祇園祭でも、朝廷が支援するようになるのはその1つの現れである。民のエネルギーの盛り上がりを味方に付けたかったのであろう。地方でも事情は似たようなものだった。新任国司(受領)が赴任すると、真っ先に土地のゥ神社に参詣する。それが彼の任地支配宣言の一つの行事になった。時代は下がるが、NHK「平清盛 第13回 祇園闘乱事件」では、摂関政治への批判勢力として寺社が描かれいる。八坂神社における僧兵と平家武士の衝突が叡山の御輿強訴の原因となり、それが武士団増強につながり源平時代の口火となる。
- その「平清盛」でも出てくるが、院政後期ですら中級貴族は公卿、殿上人には上がれない。彼らゥ大夫の望みは受領だ。実入りのいい4年任期の官職で、徴税請負業として国家財政を支えていた。税金に目的税的な項目が見られるようになる。彼らは武人を含む数10人の家の子を引き連れて業務を分担させる。律令時代の判官・主典は統治の実務を外され、責任は受領に集中するようになっていたからである。受領の勤務評定は厳格で、摂関家以外の公卿にも一定の力があった。権家にたいするゴマすりとか賄賂の数々が紹介されている。実入りを狙って評定側も家司を受領に任命する。源氏物語で習った「除目」がその日である。中級貴族が公の官職でもない上級貴族の家司を勤めるなど本来はおかしいが、この頃は当たり前で、家単位に政所があり、いわばこの小さい政府の寄り集まりが、日本全体を治めていると言った側面も出かかっている時代であった。
- 道真は遣唐使廃止を上申したのではなく、唐国内の乱れを見て一時中止を進言したのだという。だがそれ以後中国へ国使が派遣されることはなかった。それから10年あまりで唐が滅び、五代十国時代となり、半世紀あまりを経て宋の統一を迎える。摂関期の中国は強大とは云えなかった。宋も北に契丹、南に大越、東に高麗と言った情勢だった。活躍したのは商人と僧侶である。来航した宋商人は太宰府の鴻臚館でもてなされる。宋は市舶司と言う役所を設けて管理する。準国使的役割を担っていた。僧侶も皇帝に拝謁し、国情の下問を受け、また日本の国使派遣要望を朝廷へ持ち帰るなど、同様の役割を果たしている。後年には鴻廬館も廃止され、私的な商いが中心になったが、商人のもたらす中国(唐)文物は、追々国風文化が浸透してきた宮中にあっても、特級の位置を占め続けていた。
- 東北の金の産出は有名だ。鉱業は無視できぬ規模だったろう。平安宮出火の記録がたくさん残っている。再建は、民家なら日曜大工的だったかも知れないが、宮殿とか館には建築のプロが携わったのだろう。歴博にゆくと平安貴族の立派な調度品が見られる。これらの製作には手工業の専門集団が必要で、平安宮には職人たちの住まいと工房があった。でも財源の大半は土地に依存していた。受領以下国衙役人の収奪は激しく、農民の逃亡が絶えなかった。逃亡先はたいてい国の権力が及ばぬ荘園だ。荘園側と国衙の取り込み合戦が記録に残っている。道長のころまではまだ荘園は大きくなかったが、次の頼通、教通になると次第に比重が大きくなる。天皇家領も12世紀前半あたりから急増する。12世紀中頃荘園整理令は荘園を制度として認めた。荘園制が完成したころは、寄進によって荘園支配は本家−預所(領家)−下司(在地領主)という上納重層構造になる。本書以降になる中世における荘園制の破壊は、下司が力を持つようになり、上層の支配を肯んじなくなったということだ。その下司は地方武力の中心である。本家とは院・女院・摂関家、天皇家の御願寺や権門寺社などの、王権を分有する存在に限られてくる。
- 戦乱が相次ぎ、末法思想が貴族社会に広がる。戦功のある中央軍事貴族がその後の歴史を動かすようになる。3大軍事貴族として秀郷流藤原氏、貞盛流平氏、清和源氏が上がっている。後世最後に覇を唱えるのは源氏だが、前九年合戦、後三年合戦で義家が動員できた兵力は、清原氏などの地方武力と宮廷の号令によるもので、源氏は東国武士を組織化し、主従関係にまで持ち込んだ支配レベルにはなかった。その延長で、NHKドラマ「平清盛」の源氏一族を見ると、なかなかリアルに感じさせる面がある。
- 索引、年表、参考文献リストなど新書版にしては立派である。シリーズDが出版されてからかなり長かったので、本書は何か暗礁に乗り上げたのではないかと疑っていた。堅実な仕上がりだ。諸氏に購入をお勧めする。
('12/04/14)