低温「ふしぎ現象」

村上正秀ら:「低温「ふしぎ現象」小事典〜0℃−絶対零度で何が起こるか?〜」、低温工学・超電導学会編、講談社Blue Backs、'11を読む。私の低温に対する記憶は、肉屋の冷凍機と母のアイスクリームから始まる。どちらもまだ小学校前の幼い日々での見聞だ。肉屋からは刺激臭が時折漏れていたから、冷媒はアンモニアだったろう。母は氷と塩の寒剤でアイスクリームを作って見せた。あのころの自分にとって両方とも魔法であった。それだけではないだろうが、私が理系に進む一つの理由になったと思う。
音波式冷凍という我ら世代には全く耳新しい方法の説明がある。音波は粗密波で断熱圧縮と断熱膨張を繰り返しながら進む。媒体は圧縮で高温になり膨張で低温になる。音波は進むが、気体要素そのものは同じ付近を振動するだけだから、熱い位置と冷たい位置が出来る。音波がパイプを進行中に周辺と熱のやりとりが出来る工夫をしたら、冷凍機だって出来るはずだ。ハニカムや細かい穴の開いた金網の積層がそのデバイスの例に挙がっている。-70℃の冷凍機で天然ガスの液化が試みられた例があるそうだ。音波が進行波であることが大切だ。閉じたパイプなどでは、端末からの反射波によって定在波になる。これでは同じ位置に加熱冷却が来るから扱えない。まあざっとそんな風に理解した。インターネットで実用化されているかどうか当たってみた。'03年の記事に、アメリカ海軍などが研究中とあった。食品冷凍法とうまさの関係、アイススケートで速度が出る理由、凍った魚が蘇る生体冷凍保存術など、第1章から興味を持てるテーマが次々に出てくる。
空気組成の深冷分離法についてかなり詳しい説明がなされている。私が入社したころは深冷を得るためにジュール=トムソン効果を使っていた。だが現代では熱膨張方式のようだ。気体は外部に仕事をして自らは冷却する。入社後数年経てかの著名なLinde社から輸入した深冷装置では膨張タービン式であった。丁度技術の変革期だったのだろうと思うと懐かしい。石油アセチレン用の酸化剤は空気から分離した酸素を用い、エチレンガスの精製にLinde装置を使ったと記憶する。
私は新制高校出身だが、学制が変わったころでしかも戦後間もなかったから、教育体制は混乱していた、またろくな教科書参考書もなかった。貧乏でもあったからだが、私は古本屋で見つけた旧制高校の物理学教科書(吉田卯三郎:「三訂物理学」、三省堂、'57再改訂版)を唯一の頼りにしていた。本書に華々しい高温超電導物質の話などはでてこない。時代が判って面白い。Hgの抵抗が4.2Kで測定不能ほどの低い値になる、この超電導現象はSn、Pb、AuのほかBi系合金にも見られるとある。Cuはダメ。吉田の本では超電導ではなく超伝導としてある。昨今では電気屋さんは超電導を、物性屋さんは超伝導とするらしい。本書には超熱伝導があとで出てくるから、区別するには超電導の方が良いとも思えるが、広い意味に使うには超伝導の方がよい。夢のリニアモーターカーだとかでやかましい次世代新々幹線は、間違いなく超電導現象を利用する(本HP:「新世代鉄道の技術」)。高温超電導現象は'86年の発見が切欠で、世界に研究ブームを巻き起こした。今の最高値は-116℃だそうだ。工業化の目安・液体窒素の沸点-196℃よりだいぶ高い。実用化には臨界温度のほかに、上部臨界磁場、臨界電流密度が問題と軽く触れてあり、それ以上は伏せられている。完全反磁性要件は秘中の秘なのだろう。
水素燃料電池自動車が完成したら、8kgの水素で1000kmを走れるとある。私の車はガソリン満タンでも500kmほどだ。この水素容器重量は80kgぐらいのものらしい。でも液体水素は沸点が20Kの極低温で、車載にはいろいろやっかいだ。水素気体がオルソ/パラ比=3/1、液化水素がほぼ全量パラで、パラからオルソへの変換で吸熱がある。気化には余計なエネルギーが必要なのだ。これも問題だ。超高圧水素気体ボンベ方式や水素吸蔵合金方式も検討されている。高橋武彦:「燃料電池 第2版」、共立出版、'92には、水素燃料電池が米宇宙プロジェクトでは'68年のアポロ7号から搭載され、続いて海洋開発に、またヨーロッパでは運輸用に成果を上げたことをわりと詳しく説明している。本HPを「燃料電池」で検索すると10件ほどは出てくる。自動車用など直ぐ目の前と思っていたが、どっこいそうは問屋が卸さなかった。電気自動車かて、やっと最近になって実用化したのだから、もう2-30年は掛かるというのだろうか。
ほんとうの低温「ふしぎ現象」はHeとくにHeUにより具現される。Heの特異性は、分子量が最低の不活性元素であることから生じると思う。相図に三重点がない、気相は固相から絶対零度に至るまで液相で分離されている、液相は沸点2.2K以下(U)と以上(T)で異なっている。HeUは摩擦なし流れの超流動性を持ち、ゼロエントロピー性を示す。熱伝導率に換算すると、銅の数千倍という「超熱伝導現象」を持つ。HeUは核融合炉や高エネルギー粒子加速器に使われる大型超電導磁石の冷却、宇宙からの赤外線やX線天体観測用の望遠鏡冷却などの応用があるという。私ども化屋は、NMRとか電子顕微鏡に超電導磁石が使われるようになってから、この超電導に幾分familiarになった。もう1/4世紀昔の話だ。分析化学専攻の人はもっと昔だろう。極低温の世界ではほかにもいろいろ常識外れの現象があるようだ。「熱機械効果」「量子化渦」「第2音波」「超流動乱流」などの単語が散らばっている。ここらはまだまだ物理屋さんのお楽しみ分野で、工学屋が食指を動かす対象ではないらしい。
人工衛星「あかり」に載せた赤外線望遠鏡は世界最新鋭である。超流動体Heにより1.6K以下を実現している。He循環型ではないから5年もすれば液体Heはなくなり、あとは機械式冷凍機で50Kを維持する。赤外線は透過力があるからより遠くの宇宙、より低温度の宇宙を観察できる。人工衛星が飛ぶ空間は4Kの極低温だが、太陽や地球からの放射熱が機器の温度を暖める。210-230Kになると云う。機器自体が発する赤外線が雑音となって観測を妨害するから、極低温にまで冷やさねばならないのだ。
人類はどこまで絶対零度に迫れるか。どんな冷凍法を使っても、現実にはそれ自身の放熱があるから、絶対零度は無限のカスケードにせねば得られないだろうとは、素人でも分かる話である。出来るだけ本筋は冷却からは独立の物理機構を利用することだ。本書で唯一超極低温の名が与えられているレーザー冷却が実現する世界は、1000万分の1Kという。3人のノーベル物理学賞学者を産んだこの方法は、ボース=アインシュタイン凝縮を実現した。レーザー光子を気体分子に共鳴的に吸収させ、気体分子を非常に狭い運動量範囲に押し込む。このとき光のドップラー効果を利用する。統計力学では、「気体分子の速度分布幅の2乗は温度に比例する」から超極低温に到達できるのだ。He-3とHe-4の希釈冷却機では0.01K以下まで、He-3のポメランチュク冷却で0.001K、核スピンの断熱消磁冷却機で1Kから1ピコケルビンまでの可能性などの話が出ている。ポメランチェク冷却とは、溶融曲線が通常とは反対に温度に対し負の傾きであることを使う方法だ。ここでは固体の方が液体よりエントロピーが高い。不確定性原理から、動けない固体分子が液体分子よりも運動量が高いのだ。だから液体分子を加圧固化して吸熱できる。
絶対零度の追求はなかなか読ませる記事である。

('12/03/28)