十字軍物語T-2

「十字軍物語T」ではアンティオキア攻略までを語った。
さて、将来の備えのために、十字軍は1隊を守備隊として残し南下、ついにエルサレム城壁に至る。エジプトの支配圏である。兵力は漸減して1.2-3万だったらしい。だが十字軍の到来が予告されていたのにもかかわらず、守備兵は少なかった。エルサレムの城壁は周囲4kmで堅固であるため、援軍到来まで持ちこたえればよいという計算であった。ここでは攻城用の塔が威力を発揮する。ころ付きの、城壁と同じ程度の高さの櫓を組み、城壁に押しつけ、兵士が城内に飛び込む。塔は木製で、火矢の攻撃を壁面に獣皮を貼って防ぐ。守備隊はギリシャの火で対抗する。この兵器は、石油と硫黄の混合物を壺に入れ、点火して投げつける手榴弾だそうだ。
陥落後はアンティオキア同様に十字軍の皆殺しが始まった。市内には、キリスト教徒は戦いの前に城外に追放されていたから、イスラム教徒とユダヤ教徒が残っていた。ユダヤ教徒は、キリスト教徒からは蔑視されてはいたが、地中海の便利な中持ち役として重宝されていた面もあったらしい。神殿に逃げ込んでいた婦女子300名が結局は焼き殺された。法王公認奨励の、異教徒虐殺劇であった。如何なる犯罪も聖戦なるが故に許され、天国行きが保証される。法王がそのお墨付きを与えている。「NHKスペシャル 文明の道 第7集 エルサレム 和平・若き皇帝の決断」は、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ2世が、エルサレムにもたらした10年間の平和について論証する。この第1回十字軍の百何十年か後の話だ。その2世が法王を称して、ヒツジの顔をしたオオカミと酷評したという紹介があった。法王が過去を、曖昧な抽象的な言葉ではあるが、謝罪している場面が出ている。
中南米先住民に対する白人移民の行動は、いちいち出典を云わなくても、キリスト教の異文明に対する不寛容の姿勢を証明している。今ではずいぶんと協調的姿勢へ変化したが、不寛容がキリスト教の元来の本性だと思う。イスラム教も仏教に対しては同じだった。バーミアンの大仏、シルクロードの都市国家の運命など、何しろ「コーランか剣か」だったから。纏めると、一神教徒は多神教徒に対して容赦しないとまあ一応は解釈出来る。一から多へは理解の幅を超えるのである。だが、「仏教もヒンドゥー教も実は一神教で、多神に見えるのは、唯一絶対神が目的に応じて化身となって姿を現す、という思想が普遍しているのを誤解しているのである(本HP「ヒンドゥー教」)」と云われると、脳みそがぐらぐらしてしまう。じゃあ皮膚の色か顔立ちの相違か。
史実としてイスラム教徒は、一神教のキリスト教徒に対しては「コーランか剣か」と迫らず、ただし2等市民としての生活ならば保障した。コーランは聖書を否定的にとらえていない。トルコのカッパドキアの洞窟内教会は、つい最近までトルコ奥地にもギリシャ正教が生きていたことを示すし、中近東には今も修道院が活動していて周辺のモスリムと平和を保っている。エジプトのコプト派教徒もイスラム教徒の中で何百年の風雪に耐えて生き残っている。イスラム教徒は寛容であった。
NHKスペシャルの「街道をゆく 第9回 島原・天草の諸道」では、原城に立てこもったキリシタンに対し、幕府軍は容赦のない殺戮を行ったと物語る。幕府の裏に仏教があったのは事実だ。しかしこの戦争は、農民側から見れば、天草二郎16歳が盟主とは云え、圧政に対する絶望的な一揆で、幕府側から見れば、キリシタン禁令がそもそも布教の裏に世界制覇の野望を嗅ぎ取っていたのだから、政治戦争であり宗教戦争の匂いは薄い。
十字軍の3倍ものエジプト軍が宰相指揮の下カイロから前進してくる。でもこの難敵にも十字軍は勝利する。エジプト軍は早朝の敵襲など考慮していなかった。アラブの戦争習慣にはなかったのであろう。もうその頃は十字軍の騎兵も歩兵も重装備から中装備ぐらいになって機動性を上げるとともに、獲物が戦場にまで家の金銀財宝を持ち運ぶ習慣があることも熟知していた。よく分からないが、アラブもトルコも定住性の低い時代の名残を引き摺っていたのではないか。
ヨーロッパを発ってから3年でエルサレムを占領した。それからはアンティオキアからエルサレムに至る回廊を征服してゆく。完成までに10何年もかかっている。トリポリ伯領が領土としては最後だった。それとは別に海港都市の実質支配がある。交易で富を生む重要拠点であり、エジプト海軍の軍港であった都市もある。十字軍にはイタリアの海洋交易都市国家が支援を続けていた。ピザやジェノヴァに加えてヴェネツィアが加わる。全2者は一匹狼的商人によるものであるが、ヴェネツィアは国家としての行動力でたいていは大艦隊だったから、強力な助っ人になった。交易船と云っても軍艦を兼ねた存在であった。制圧に向かう部隊は驚くほどに少ない人数なのに、十字軍との交戦の経験が縮み上がらせていたためか、大都会ダマスカスのスルタンは手も足も出せず、講和を申し入れたら、キリスト教への改宗とダマスカスからの退去を条件にされる始末であった。制覇側は次第に現実に目覚め始めていた。国を建てても治める人民がおらねば、農業も手工業も商業もあったものではないし、税の取りようもない。
新しい法王代理が着任する。先の代理はアンティオキアの攻城戦で疫病死していた。彼の最初の仕事は、神の名においての君主への統治権の付与であった。中世ヨーロッパでは神権が王権の上にあった。古代に祭祀一体はあったが、我が国にはそんな歴史がない。占領地は北からエデッサ伯領、アンティオキア公領、トリポリ伯領とエルサレム王国領に分割されていた。王は一応は公とか伯の上にある。次に行ったのが法王領土化である。中世のカトリック教会は世俗資産を追及して止まなかった。エルサレム王国初代の王が死の床にあった時、法王代理は執拗にエルサレム王国を法王に寄贈するように説いた。すでに多くの割譲を得ていた代理は、図に乗ったのであろう。だが信心深い騎士たちも、そこまではお人好しではなかった。
エルサレム国2代目の王は、18年の在位の間に、十字軍国家の基盤を固めた。法王代理の反対を押し切って、エルサレムにギリシャ正教徒もアルメニア派のキリスト教徒も居住可能とし、他の制覇都市ではギリシャ正教徒はもちろんイスラム教徒も続けて住むことを認めた。海軍による支援で功のあったイタリアの商人の居住区を、海港都市の中に認めた。キリスト教徒とイスラム教徒の結婚も認めたから、聖職者には仰天の出来事となった。しかしどんどん減少する手持ち軍兵の補充を考える時、致し方のない面があった。ヨーロッパにはたびたび要請をしていたが、巡礼者はどんどん増加するものの、騎士や兵士の補充はほとんど来なかった。ここら辺が、諸侯の寄り合い所帯による十字軍で、皇帝や王の指揮する十字軍でなかったことによる短所であったのだろう。エルサレム第2代国王の死により、主な十字軍第1世代は全員が退場した。23年間だった。

('12/02/21)