新日本紀行いろいろU
- 昨年末に新日本紀行を、新築のNHK千葉放送局のアーカイブス設備で見たのが切欠になって、あの古い映像を楽しむようになった。いちいち放送局まで出かけるのは億劫だし、他人に席を占領されている時もある。以下はもっぱらオンデマンドで見たものである。オンデマンドで見ることができる作品には視聴期限が付いている。期限ぎりぎりなのに気付いて優先的に見た作品が多い。
- 「地蔵盆のころ〜京都西陣〜」は40年ほど昔の京都である。私はその頃もう京都を離れていたが、在住時の記憶が蘇る情景である。市電がまだ走っていた。壬生寺が地蔵の本拠で、8/22〜23の地蔵盆の日には祠のない団地などに、80体からの貸し出しをするとは知らなかった。町内の当番は家をお盆に開放して地蔵を祀り、子どもたちのアミューズメントに提供する。世話は町内会で予算共々担当する。私は旧市内ぎりぎりの処に住んでいた。小さいころ町内ではお化け屋敷をお地蔵の前でやっていた記憶があるが、あれも町内会の人たちが世話をしていたんだと思い返す。今はどうなっているのだろうか。
- 「幸福への旅〜帯広〜」は北海道・幸福駅を中心に一帯の農業地帯を紹介していた。私がバスツアーで訪れた時はもう鉄道は廃線となり、名前がめでたいからという理由からだろう、駅舎とそこの線路及び客車が置いてあった。すでに気動車が走っている時から無人駅化されていたらしい。福井県の大野から移住した人々による開拓部落で、その当時で23haという耕地面積を大家族で経営していた。機械化が始まり、馬は部落でタダの1頭になっていた。開拓開始当初の苛酷な状況を知る古老がまだいて、寺もなく僧侶もいないから死者を自分の手で火葬し、自然石に名を彫って墓にしたといい、雪に埋もれた墓に記者を案内していた。
- 「だるま市繁盛〜群馬県高崎市〜」を見た。'72年の作品。昨年高崎を訪れた(本HP「高崎日帰り観光」)。達磨寺のだるま市は、農家が正月3ヶ日も休まずに働いて作っただるまが7万個も売れる縁日である。売り上げは組合に集められ平等に分けられる。4000万円。値段は買い手と売り手の駆け引きで行う。売り手の言い値8500円にたいし買い手が850円で始めた。最後は5500円になっていた。だるまへの願掛けは1ヶ年だけ有効で、次の年はお寺で燃やさねばならぬ。成就すると前より大きなだるまを買わねばならぬ。だるま商売が繁盛するように旨くルールが作られている。だるまの製作職人から寅さんモドキの商人に早変わりする農民の姿を追跡する。売れ残りはさらに各地に出店するため農民が担ぎになる。背の高い樫の生け垣で、空っ風を防ぐ構造の農家のプロットなど、今は多分失われた風景ではないかと懐かしい。赤城山山麓の小学校では、13年間も空っ風にやられないようにと、寒風摩擦を欠かさないという紹介があった。今も続いているのだろうか。
- 続いて「川辺の日だまり〜東京・佃〜」を見た。画質を「高」に設定しても、画像が停まることはまず無いことを発見しているので、鮮明な動画を楽しめる。NTTの速度測定サイトで下り通信速度を測ると45-55Mbpsと言う数字が出てくる。佃島の住吉神社は出てこなかったが、かって覗いたことのあるつくだ煮屋が出てきた。もう東京湾で魚は採れないが、ばあさんのころは白魚が捕れたという。摂津の国から家康の時代に移転してきた時43戸だったと云った。今400戸ほど。佃島は焼夷弾による戦火を免れた数少ない地域だ。その前の関東大震災ではどうであったのか。町並みを見ると帝都復興院の都市計画からは外れていたようだ。江戸期のままの町並みのように覚えた。まだ人情溢れる町であった。築地の魚市場に出勤し、あるいはそこで仕入れて行商を銀座でやっている人の姿が映った。町のおかみたちの相互扶助ぶりを地下水ポンプの利用とか、主婦の和裁教室で示していた。
- 翌日、「東京・山川草木」を見た。三上というギター弾き語り歌手の「東京だよ、東京だよ、・・・・、おっかさん」と言うしゃがれ声の最後の絶叫は、コンクリート台地にのった東京砂漠の情景に不思議にマッチしていた。河川敷のホームレス住宅のばあさんが増水ごとに流される畑を懲りずに耕す姿が印象的であった。
- 続いて「遠くにありて〜東京・岩手県一戸町〜」('77年)を見た。北上山地標高400m、町の中心から10km、バス終点から歩いて1時間という僻地から13人が出稼ぎに出ている。部落の全員が親類で、本家と分家の働き手の13人だ。残る男は病がちの本家のおじいさん1人という。13人の労働現場は東京湾海底トンネルの陸上製作所で、彼らは四角い断面の隧道の鉄筋枠へ生コンを埋めて行く仕事である。現場とはまあこんなものと思う。部落の残された女だけの生活はきびしいものだった。前年の冷害で、春からの食料はもちろん種籾も外から買わねばならぬと云う。普通は農業で70万円、出稼ぎで70万円の年収という。部落は昔は軍馬の産地として豊かであったらしい。1日は、豪雪地帯の早朝-10〜-15℃と言う寒さの中、乳牛の乳搾りから始まる。6時頃には学校に子どもが出発する。遠いのだ。10人を数えた。女たちは何かにつけ共同で仕事を行う。出稼ぎが始まってからの15年間に、自然と身につけた知恵だと紹介されていた。離れた家族への思いやりが朴訥に語られていた。撮影対象の一戸町平糠釜石の今の航空写真を探した。ダム湖が見えた。周辺の部落は健全のようであった。
- 「三重連の峠〜秋田・青森県境 矢立峠」は'70年の作品だ。デゴイチを先頭に蒸気機関車3台で、急勾配の奥羽本線矢立峠を、あえぎあえぎ上って行く最後の貨物列車の記録である。最後というのは勾配がもっと低い新トンネル経由の経路が開通したためである。碇ヶ関と大館の間だそうだ。そろそろ鉄道ファンが目立つようになったころのようだった。最後の勇姿を写真に収めようといろんな場所に出張っていた。私はこの旧軌道を急行日本海に乗って1度通ったはずだ。昭和29年夏だから'54年だ。でもさっぱり記憶がない。新軌道は電化されたあと何回か通った。こちらの方もさしたる印象は残っていない。
- 「北洋B区域〜北海道・釧路〜」は日ロ漁業協定に基づくB区域でのサケ・マス漁業の実体を捉える。A区域はオーツク海の母船方式の漁場で、B区域は独航船による漁場と紹介された。大漁の時は1隻1回出漁で1000万円の売り上げになると云う。だがこんな幸運は希の希で、撮影時は50万円だった。レーダー、魚群探知機などもうあらゆる近代装備が備えられていた。荒っぽく危険な船上生活を垣間見ることが出来る。海上保安庁巡視船が医師を乗り込ませて付き添っているが、次々に救急治療の要望が無線で伝わってくる。これぞ男の職場という映像であった。私は釧路に何回かでかけているが、港はいつも静かだった。漁期に合っていなかったのだろう。
- 「私の塔 私のいかるが〜奈良県斑鳩町〜」は'74年の法輪寺三重塔再建物語である。幸運にも古塔の図面が残っていた。落雷焼失後先の住職が必要なヒノキ材を揃えていた。台湾檜だったそうだ。宮大工西岡家が健在だった。法隆寺で有名な西岡常一が棟梁となって再建した。小説家であり随筆家であった幸田文さんが再々写る。再建に多大の貢献をした人という。父・幸田露伴が「五重塔」で世に知られるようになった縁で、彼女は三重塔の再建に力を貸す決心をしたという。再建費用2億円で、まだ不足のため住職の寄付集めの行脚は当分続くと紹介されていた。現在なら文化財に対する意識は高いからわりと簡単だろうが、当時は著名な寺院でも容易ではなかった。私は三重塔を見ている。戦後だから再建の塔だった。ただ観光ブームがやってくる前だったから静かだった。今は法隆寺駅付近はせせこましい現代住宅街になっているが、引き込み線があって遠くに農村風景が連なる時代であった。法輪寺付近でも田畑が多かったように記憶する。おりあらばもう一度訪ねてみたい。
- 「十津川物語〜奈良・北海道〜」は、奈良県吉野郡十津川村と北海道樺戸郡新十津川町を結ぶ物語である。新十津川町は、明治22年の十津川氾濫で村の2000人が集団移転し、原野より開拓して出来た。もう3世4世の時代になっていて、流石に日常の交流が途絶えているが、新十津川町住民の古里を思う心は消えない。十津川村は勤王の村で、宝庫にはおそらく南北朝時代のものであろう、綸旨が保管されている。江戸時代は無税地帯だった。林業地帯で、村民の過半が杉花粉症に罹っていると報じられたことを記憶している。台風によるダム湖でも有名になった。新十津川町は成功し北海道の米処と紹介された。北米に移住した人たちも、戦争を理由に強制収容されなければ、こんな風に成功していたのであろう。
('12/01/23)