本田技研の挑戦
- 内橋克人:「新版・匠の時代3」、岩波現代文庫、'11の「第U章 ベルギーの冬−本田技研」と「第V章 ホンダの発想−超常識の「四輪操舵」」を読む。振り返ってみると、日本の自動車産業は、江戸期以来の我が国のものづくりシステムの集大成だったと感じる。2万とも3万とも聞く部品を下請けから集め、あるいは自前で生産し、アッセンブル工程に流す。親企業に繋がる縦関係は親子を思わすほどの緊密さだ。新聞などは直ぐその関係のネガティブな面にばかり集中して、外国の、アッセンブラーと部品メーカーの「合理的」「対等性の高い」関係を賛美したがる。だが事実として、末端の先々にまで神経の行き届いた日本の自動車が世界を制覇した大元の理由であった。
- ホンダのマン島レース完全優勝、マツダの世界初のロータリー・エンジン、トヨタのハイブリッド・エンジン、まだ海の物とも山の物とも判断が付かないが、ともかくも日産の電気自動車。次の経済大ブレーク国と名が上がったインドの、小型大衆車のシェアの大半を握っているスズキ。思いつくままに上げても話題いっぱいで、確かに今までは国家を代表する産業であった。
- 私の自動「車」暦は長い。昭和34年頃にはオーナードライバーであった。手取りが月1万円程度しかなかった時代だから、同期のもの数名と共同出資で、タクシー会社から中古のダットサンを買った。もう10万km以上走った中古車だった。よく故障や事故を起こし、数々の武勇伝を残した。スーパーカブはそれからさらに何年かして買った、初めての一人持ちの自動「車」であった。ノートラブルのいい車だった。
- 本田技研がベルギーに工場進出したころ、私は技術導入のためにドイツに滞在していた。東京オリンピックのころだ。建設から操業までの苦心談が語られている。ヨーロッパ全体に通じる話、ベルギー独特の問題など話題豊かである。私の印象と重なるものもあって、今となっては何とも懐かしい。
- 週45時間の労働、金属産業の熟練労働者で月4.5万円と意外と安い労賃が、一つの魅力だった。ベルギーはコンゴ植民地経営に失敗し、投資先を求めていた。不況がある。例えば炭鉱。閉山が相次ぎ、それに繋がる裾野機械工業が、新しい製品販売先を求めていた。ベルギー政府も目星を付けた地方自治体政府は、外国からの企業誘致に熱心であった。彼らは先端工業国への道を模索していた。地域の関税は周辺の大国に比べてずっと安かった。そもそもヨーロッパは自転車王国で、原付自転車が売れに売れていた。見落としもあろうが、ホンダがベルギーに工場立地を決心した、本書に挙げられている要因はこんなものだった。
- 長期出張の社員が家族を呼び寄せる。追々国情が飲み込めてくる。その面白い例が出産だ。入院費、出産費すべて無料。おまけに1子あたり3.5万円の「祝い金」が出る。男は立ち入れない日本と違って、ベルギーでは夫が出産に立ち会う義務がある。出産の瞬間には妊婦の手を握って一緒にがんばらねばならぬそうだ。病院の産科は完備していて、完全個室で新生児の様子が、透明保護箱を通して母親が常に見れる位置にある。病気全般に対しホームドクター制になっていて、専門医に紹介したあともこのドクターが出入りして最期まで見届ける。日本でも今はこんな議論が出始め、又実施されだしたが、ヨーロッパの福祉厚生安全など人に関する施策は、当時から羨ましいばかりの内容であった。それが工場にも持ち込まれると、日本との相違に派遣者は対応に苦慮せねばならなくなる。
- 寒波到来、屋外作業禁止4ヶ月。部品メーカーから納入の工程表が来ても、日時が入っていない。災害はどこから沸いてくるか判らないから、作業工数だけしか書き入れないという。日本では当たり前の突貫作業などとんでもない。量産体制で安く上げるのが日本だ。でもそんな投資はやらない。次の戦争が始まったら全部パーになるからだという。冗談でない。スイスには核シェルターがB3Fに設置され、必要生活物資も地下に蓄えねばならぬ。自家発電まで備える。一戸建ちも又然り。建設費は2割は高い。何度も戦火に蹂躙された歴史のあるヨーロッパでは、安全は真剣な問題だ。
- 幹部候補生は実によく働き、派遣員とは、涙ぐましいほどに、一致協力して仕事に当たる。だが一般労働者は、悪意がないにせよ、おおよそ日本とは意識が違う。基本的に階級社会が当然なのである。職種ごとに、熟練工から未熟練工まで、何段階も階級があるのが当然で、ホンダ流に白一色の同じ作業衣を着せたことにすら不平が吹き出た。白とは何事ぞ、一番下っ端の塗装工が着る作業衣じゃないかと。他人の領域を侵してはならない。改善運動で業務の持ち分外に改良点を発見して意見具申したら、そこから苦情が出た。
- ヨーロッパの原付自転車のエンジンは2サイクルだった。ホンダは日本と同じ4サイクルで攻めた。卓見だったと思う。でも3年ほどは売れなかった。現地化が進むほど調達部品に品質問題が出てくる。その値段ならこの程度でしか出来まへんとくる。下請け意識などサラサラなくて、互いに独立対等なのだ。設計図の描き方からして違う。日本は3角法だが、あちらは1角法。重要素材の鉄板に、ホンダの使う0.6mm板がない。石畳道を我らより5割ほど体重の重い人が乗って走る。車の繰り返し応力による疲労は大変だろう。結局は、ヨーロッパ向けのスーパーカブを設計し直すことになって、やっと売れ行きが伸び出したらしい。
- 買い換えの時期に、四輪操舵の車・新プレリュードをホンダが宣伝していたことを覚えている。でも私は結局はマークUを買った。新赴任地に持って行くのに家内が目新しさを嫌ったのであった。その頃は車はステータス・シンボルでもあった。マークUは結構活躍した。でも、高速道を走る長旅の時は、ヒョイと車線変更が出来るという四輪操舵の利点を思った。細道の交差点で電柱の支持ワイヤーに車のバンパーを引っかけた時は、四輪操舵だったらもっと回転半径が小さいのにと悔やんだ。車線変更の時は前後輪が同方向に舵を切り、小回りを必要とする時は前後輪が逆方向を向く。クランクによる機械方式だから信頼性は高い。ホンダは昭和52年頃から基礎研究に手を付け初め、55年には研究プロジェクトとし、59年に開発プロジェクトした。市販は62年という。丸10年の開発史だ。
- ホンダの大発明はしかし世の中に受け入れられなかった。初めは好調だった販売数もやがて尻すぼみになっていった。インターネットで調べた。理由は、機構追加による複雑化、重量の増加と新規技術ゆえの価格上昇、それから、多分これが第一だと思うが、二輪操舵に慣れ親しんだ人々が、操作に対し違和感を払底することが出来なかったことだろう。ホンダの乗用車にもう四輪操舵車はないという。四輪操舵車として残っているのは日産のスカイラインとフーガで、ホンダと異なり電気制御式と記載されていた。
('11/12/24)