東レの人工皮革
- 内橋克人:「新版・匠の時代2」、岩波現代文庫、'11の「第U章 東レ「蘇った繊維の物語」」を読む。東レは旧名を東洋レーヨンといい、我が国のナイロン業界に覇を唱えた会社として記憶に新しい。結局はduPont社から技術導入を行ったが、戦前よりε-カプロラクタムよりナイロン6を重合製糸し市販に漕ぎつけていた。ε-カプロラクタムの新しい製法PNC法をも開発した。硫安を副生しない画期的な製法だった。ラクタム製造技術の導入に私はヨーロッパの会社に派遣された事がある。忘れられない化学品の名だ。東レは確かに化学、繊維の技術開発に抜きん出た力のある優秀な会社である。その人工皮革エクセーヌの成功物語である。
- いきなりイタリアのテルニの町風景が出てくる。テルニも忘れがたい名だ。モンテカチーニ社のNatta博士(ノーベル化学賞)の率いる研究陣が、当時不可能といわれたプロピレンの重合に成功し、ポリプロピレンを工業化した。本書に出てくるモンテ詣でに成功した私の勤務する会社から技術導入チームが送られた。工場はフェララとテルニの2ヶ所だった。チームのメンバーは馴染みの顔ぶれだった。私らは会社の中間実験設備で1バッチkg単位のポリプロピレンの重合に成功していた。その研究陣から派遣された人が多かったのである。テルニのチームには直接の上司であった人がいた。もうお亡くなりになったが、古武士然とした人で、和装で町を闊歩したらしく、新聞に載ったそうだ。それがあったから、東レのエンジニアがテルニに現地の合弁工場の技術指導に行った時、町の人からは又習いに来たのかといわれたそうだ。エクセーヌは立ち上がりからハッピーで、1年もすると製造が販売に追いつかぬという製品であったという。
- 人工皮革といえばクラレのクラリーノである。クラレもたいした会社で、ビニロンの開発で著名だ。ナイロンが絹に似た性質であったのに対し、ビニロンは木綿に似ていた。人工皮革はナイロンの次の計画としてduPontが大々的に研究を開始し、釣られるように日本の各社も手を染めた。だが生き残ったのはクラレだけであったらしい。東レは工場を立ち上げたが販売は伸びず、2年を経ずして撤退の決心を迫られる。昨今の毎日新聞に核燃料再処理事業からの撤退が、電力事業者から再々提案されたが、決心をしないままに予算の倍をはるかに突破する2兆円の建設費を使ったあげく、いまだに稼働しない状況が報じられている。研究段階から数えれば何10年も使っている。云いたくないが、親方日の丸の開発事業の典型だ。東レは2年の期限付きで人工皮革事業の進退を決めるチームを作った。
- 東レの人工皮革は、0.01d(デニール)という極細繊維製造法の開発により、鹿皮調の衣類として復活する。松井亨景ほか1名:「(高分子加工One Point-1)ファイバーをつくる」、高分子学会編、共立出版、'92にエクセーヌ関連の興味ある記事がある。「(天然)スエードの中の獣毛は0.5d以下で、かつ、それがさらに細かいフィブリルより成り立っている。この触感と外観を人工的に発現させる手段として、0.2d以下の極細繊維の出現は偉大な役割を果たした。」と。その構造については、「複合紡糸−海島型(熔解型)で、島成分をポリエステル(PET)、海成分をポリスチレン(PS)とすれば、繊維が紡糸された後に、PSを溶解すればPETの極細糸が得られる。」と断面写真付きで解説してある。これは多成分紡糸法の一つだ。本書にも原料はテトロンと出ている。
- 紡糸口金構造がおそらく開発のポイントだったのだろう。直接紡糸法では、その時代では、0.1dあたりが限度であったようだ。紡糸とその次の延伸段階でブツブツと切れてしまう。極細繊維の技術開発の中心的役割を担ったのが、松山工場の最後のレーヨン研究者だったとある。レーヨンはもう黄昏期を迎えていた。そこの研究者はおそらくテーマ選択がかなり自由だったのではないか。自由とはアングラ(アイディア)研究が可能だという事で、極細の芽もすでに出ていたのだろう。レーヨンは湿式紡糸だ。原料を溶剤に溶かした状態で、凝固浴と呼ばれる溶液中で「口金」から押し出して化学反応させたのち、溶剤を除去して繊維状にする方法である。私は20年ほど前にその工場見学をさせてもらった事があった。事務所前の庭がきれいで、工場内の人影はまばらだったぐらいしか記憶していない。炭素繊維が注目を浴びていたころだった。周囲ではまだゴルフ用具のブラックシャフトぐらいしか目立たなかったが、先日商業飛行を始めたB-787の機体は、日本の炭素繊維で覆われていた。東レ松山の製品も、ぎっしり詰め込まれていた事だろう。
- 普通の商品開発とは異なり、エクセーヌ事業はアメリカでの販売が先行した。パリのファッション界で新素材として注目を浴びたのであったが、アメリカで商品の地盤を固めた。これはアメリカの総代理店の功績が大きいという。これぞプロと云える親日家のセールスマンが紹介されている。日本で受け入れられるまでには日にちを要した。活路を開いたのが大阪本社の谷町縫製問屋街への売り込みであった。「事実は小説よりも奇なり」というが、面白おかしくその顛末が記されている。私は京都の育ちで、大阪を拠点とする会社に就職し、地方工場勤めの後本社勤務もした。大阪はそこそこに知っているつもりだが、谷町界隈にどんな業種が犇めいているなど知らなかった。地下鉄に谷町線というのがあって、大阪の南北を貫いて走っている。谷町が東区、南区、天王寺区の3区に跨っている事も知らなかった。谷町のあとに市区制が出来た事を示すのだろう。橋下前知事現市長の大阪都構想が、すんなり住民に受け入れられている背景を覗いたような気がする。
- 東レがニーズをつかむ巧みさは流石で、とても上流の素材会社の及ばぬ処と感じた。東レに限らず繊維会社一般に云える事だろう。桁外れの新素材を製造よりも販売を先行させて年1割も値上げして行く。夢のような話である。外国派遣員を引き上げて国内の拡販に当たらせる。国内の営業マンなら、従来のしがらみや、まあまあなあなあの商習慣から抜けられないだろう、外国派遣員は「生き馬の目を抜く」あくどい商売に鍛えられている。新事業を彼らに任せるとは思い切ったものだ。エクセーヌは東レの攻撃的性格が成功した典型であったのだろう。
('11/12/04)