電卓戦争
- 内橋克人:「新版・匠の時代1」、岩波現代文庫、'11の「第U章 電卓戦争の軌跡−シャープとカシオ」を読む。学校を出てから10何年ほどを、算盤とたまに手回し式のタイガー計算機、それから計算尺で技術屋をこなしてきた。「答え一発、カシオミニ」のコマーシャルがTVで派手に繰り返されるころには、少なくとも社内では、四則演算に関する限り、まだ卓上タイプライターほどもの大きさだったが、電卓に取って代わられていた。
- 三角、指数、対数の各関数値を扱える技術計算用電卓が定着し、さらに簡易ベーシックによるプログラマブル電卓まで販売されるようになっていた。私の書棚にはHENMIの25cm計算尺が残っている。計算尺の最高傑作品だ。目盛りの種類は、表の固定尺上部にe^(-0.01x)、e^(-0.1x)、e^(-x)とπxの4種を下部にxとe^x、e^(0.1x)、e^(0.01x)の4種を、可動尺にはπ(x1)、1/π(x1)、1/(x1)、(x1)の4種、裏の固定尺上部にはtan or cot、sin or tan、xの3乗、xの二乗、下部にはx、log x、(1-xの平方)の平方根、sin or cos、可動尺には(x1)の平方、その逆数、1/(x1)、(x1)と配置され、log・log計算の多かった私にはとても有用な道具だった。使い方が荒かったためか目盛りを刻んだ合成樹脂面が歪んだほどだった。芯材は竹だった。計算が電卓に取って代わられた後、同型の計算尺を買い直し、それを記念品として保管している。こちらは丸ごと合成樹脂で出来ている。プログラマブル電卓は使い勝手が悪く、性能が中途半端だったので、私のはまもなく廃棄処分になった。
- 算盤、手回し式計算機、電動機式、リレー式、トランジスター型電卓、IC型、ハイポーラLSI型、MOS-LSI型それから超LSI型と言った順序で今日の電卓に到着している。昭和35年に研究を立ち上げ、39年にトランジスター型卓上計算機の1号機を上市した。MOS-LSI型電卓は昭和44年であった。形式が替わるたびにブレーク・スルーがあった。算盤と手回し式計算機の間でも指の上下運動から手の回転運動へというブレーク・スルーがある。回転運動に切り替わったら指先の熟練と脳の連携は必要でなくなるから確かにブレーク・スルーだが、経済的なメリットはなかった。アメリカNYで算盤の名人と回転式の達人との対決が行われ、加減は算盤、乗除は回転式に軍配が上がったが、僅差であったと記憶している。手回しを電動機で置き替える方法は誰でも思いつく。リレーの利用もたいした発明ではない。リレー式はカシオの特技であり、この会社は単品製造だったから、シャープのトランジスター式により大打撃を被る。
- ハイポーラ方式の限界を見定めて、当時まだ評判の確定していなかったMOS方式のLSIに果敢に乗り換えたシャープの成功はブレーク・スルーの名に値するようだ。と言っても私は半導体工学には素人なので、著者の口ぶりの受け売りに過ぎない。化学会社に勤めていたので、半導体製造がやたらと不純物に厳しい薬品を必要とすることや、同じことは空気や水といった用役に対しても云えることを知っていた。'91年にNHK SP「電子立国 日本の自叙伝」という番組が放映され、空中のごくごく微量のゴミですらLSIの不良品率に大きく関わっているという紹介がなされていた。その発見が世界の半導体を制覇した基本だと。シャープがLSIを探し回っていたころは、ハイポーラが日本業界の主流で、MOSを学会も不安定で将来性がないと投げていたという。アメリカ業界は軍需目的に不安定性を乗り越えるMOSの開発に成功した。そのブレーク・スルーは、私の当てずっぽうで恐縮だが、上記のゴミの話のように、蓋を開けたら、しょうもない原因の発見だったのかも知れない。シャープはMOS-LSIを輸入した。
- シャープには電卓博士が3人いて、重要ポストを占めているという。博士号は高い水準の創造性ある研究に与えられる学位だ。ジャーナリストがブレーク・スルーという言葉を安易に使うべきではないと平素思っているが、本書に出てくるブレーク・スルーは大学教授陣にも認められたものだから許せる用法である。大学とは阪大だ。
- 現在はもう電卓を買い物のために持参する必要はない。四則演算なら携帯電話の機能の一つになっているからだ。私が自前で買った最後の電卓は、液晶表示でしかも電池要らずだった。太陽電池が付いていて、夜間でも室内電灯が灯っておれば機能した。電力消費が少ないC-MOS LSIのおかげである。ボタンが消えてタッチパネル式になっていた。どこの製品だったかは忘れた。シャープはLSIメーカーとしては後発だが、時代最先端のC-MOS方式で出発している。電卓のC-MOS LSIへのニーズと重なったのは幸運だった。万博計画が進んでいる時代だった。社長は事務屋だが、中規模会社のシャープとして、万博に15億円のパビリオンを建設をするか、新敷地にLSI工場を建てるかで悩んだ末、工場建設に賽を投げたとある。サイズは名刺よりちょっと大きい超薄型で、よく置き場所を忘れて探すのに往生しとうとう紛失してしまった。家電製品の量販店で1000円ほどで買ったと記憶する。価格競争はここまでで、後発の各社は次々と撤退した。
- マーケッティングで消費者の需要を探し求める作業は、今日では当然のように行われている。これはものが溢れている平和時代だからこその作業で、もの不足で手に入れることが困難であった戦中戦後からの継続で時代を考える時、カシオの技術者が主婦が支払える価格から、製品の目標を線引きした姿勢は画期的であった。昭和47年代のカシオミニが1万円台だったという。経済大国となりさらなる成長を目指して押せ押せムードだったから、国民はまだつましやかな生活ぶりで、消費ブームなど無かったが、それでも将来を見据えた妥当な価格であったと思う。我が家にワープロやPCが入るのはさらに10何年後だが、そのころは10万円20万円台の買い物が家電屋のターゲット価格となっていた。
('11/11/17)