特攻


敗戦記念日が近づくと二次大戦をしのぶ特別番組がいろいろ流されてくる。その中の一つで特別攻撃隊が九州の基地から飛び立つシーンを久しぶりで見た。敵艦めがけてつっこむ青年の出撃前を、結果を知っている目で見るのであるから、どんなに下手なドラマだって胸を熱くさせる。
この国にはもう特攻隊は居らぬ。今特攻が現に存在するのはイスラエルのパレスチナである。パレスチナが無差別にイスラエルの民を標的に肉弾を掛ける。イスラエルは軍を動かしてイスラエルの殺された数だけ治安という名目で殺す。いつ終わるとも知れぬ戦いを見ていると人智の将来を悲観したくなる。
双方の言い分を聞けば1000年単位の歴史が飛び出して来るという。これは日本と周辺国との間にも云えることだが、唯一の正しい歴史認識など無いのである。ユダヤ教徒がキリスト教徒の10何世紀に渉る迫害から、最後にホロコーストの大虐殺の試練を経て、やっとたどり着いた土地も先住者の生活を奪う以外安住できる場所では無かった。問題がイギリスの手で体よくヨーロッパから中近東に移されただけである。ヨーロッパ側は助かっただろうが、今度は先住の民が戦いに立ち上がらねばならなくなった。
特攻は種族の存続の危機感から生まれる。戦いの本能を受け継ぐのは男性であるから、男が社会を支配する制度の国には特に生まれやすい。イスラムの教えが支配的な土地はこれに該当するのであろう。特攻を食い止められるのは力ある方の自制だけである。危機感を納める方に導くことである。あれだけ被迫害について長い歴史を経験したユダヤの民が、力関係が逆転したときに、今までの迫害側と全く同じ高圧的立場を異教徒に取るのは人類の業か。仏の云う慈愛の手を差しのべなされ、差しのべなされ。

('97/08/09)