英仏百年戦争
- 佐藤賢一:「英仏百年戦争」、集英社新書、'03を読む。以前に同じ著者の「カペー朝〜フランス王朝史1〜」(本HP「フランス王朝の幕開け」)を読んだ。カペー朝は百年戦争の少し前に途絶える。でも本書の前史は11世紀から始まるから両書は旨い具合に接続されている。私のヨーロッパの中世史への関心は、塩野七生の「ローマ人の物語」が端緒になっている。歴史小説も良いがちょっとは歴史学をと思って読んだ、掘越孝一編:「新書ヨーロッパ史 中世篇」(本HPに同名のメモあり)は選択の失敗だった。読みづらいだけで、印象に残らなかったのである。現代の英仏は仲良しムードに浸っているかのようだ。たしかにアメリカ、ロシア、アジアとヨーロッパ外に強国がひしめき合う今日では、いがみ合う閑はない。だが、百年戦争が終わった後のガリヴァー旅行記が書かれた時代でさえ、両国はしばしば熱い戦争を行っている。それに比べれば日韓の争いなど底の浅いものだ。
- いきなりガツンとやられる。英仏戦争ではなく仏仏戦争だという。歴史が開いたころのイギリスの住民は、ガリア戦記のガリア(ケルト)民族であった。中世に入るとゲルマン民族の大移動が起こり、その一派のアングロ・サクソン人が上陸し、続いてデンマークのデーン人がバイキングとして荒らし回り、国情不安定の中へノルマン族がやってくる。ガリア民族は僻地に追いやられて、ウェールスとかスコットランドとかアイルランドに活動中心を移す。ノルマン族とはフランスのノルマンディ地方を本拠とする一族で、彼らも元をただせば大移動でやってきたゲルマン民族の一派である。だが彼らがイングランドを征服した時はすでにロマン語族になっていた。イングランド王国と云ってもフランス王国の一地方政権の支配する植民地であった。
- 百年戦争前、フランスで異変が起きた。フランス王が領有権紛争に介入し、北西部の地方政権の伯家を追放した。伯は植民地に逃亡しイングランド王を名乗り、フランス本土の失地回復を狙って行動を起こす。公は親王、伯はそれ以外の大名と思ったらいいらしい。これが英仏百年戦争だ。イングランド側の血を流して戦う兵士はアングロ・サクソン人やケルト人でも、指揮はフランス人たちである。領有権意識は強いが、国家意識民族意識など希薄な時代であった。英国対仏国なんてな構図はなかった。それを英仏戦争に仕立てたのは後世で、シェークスピアの劇作に負うところが大きい。グレート・ブリテン島全体を英国と思うようになったのはそのまた後の話で、シェークスピアの英国はイングランドである。彼に悪意があったわけでは無かろう。実際の仏仏戦争は前半はドーバー海峡北側、後半は南側の勝利だった。でも劇場に客を呼ぶには、英語国民の英雄的活動でなければならなかった。それが無邪気に受け入れられて、英国では英仏百年戦争となっている。
- 農本時代だから植民地と本国の実力の差は歴然としている。集められる兵隊の数はフランス側は3倍は下らなかった。それでもイングランド側に勝利の女神が微笑んだのは、イングランド軍がより近代的組織であったからだ。フランスはおのおのが独立性の高い強大諸侯の寄り合い所帯で、王には封主権はあるものの、戦場で統一戦略の下で戦うような軍隊は作れなかった。封主権は封建制度の主従関係を規定する。「江〜戦国の姫たち〜」の秀吉と家康、家康と秀頼の関係を思い浮かべればよい。ついでに戦国時代を引き合いに出すと、イングランド軍とフランス軍の組織差は、信長軍と今川義元軍の違いのように思う。本書の書きぶりではフランス軍は今川軍よりもっと中世的であった。も一つ、兵器に違いがあった。イングランド軍は長弓を多用した。もとはウェールス人の武器で、射程距離が長く速射が利くという。フランス軍は弩弓だった。黒太子エドワードの活躍もあった。国王は捕らえられ、国土の1/3を失い、国家予算の2年分強もの身代金(金5トン)を取られる。
- 戦後の情景は日本とまるっきり違う。捕虜の国王は拘束地ロンドンで、さながら保養地のバケーションを楽しむような悠々の毎日を過ごす。勝った方は身代金がたっぷり取れるから、仇おろそかな待遇にしないのがナイトの時代だ。身代金に値しない連中は、哀れな終末を迎えねばならぬ。始末に悪いのは傭兵だ。戦闘が終われば敗者側はもちろん勝者側でもお払い箱だ。彼らは野に放たれた猛獣と同じだ。強盗団となってフランス国中を荒らし回る。大戦争だからその数も尋常ではない。住民はたまらない。不満が鬱積する。まあフランス革命の種がまかれ、その前哨的活動が始まったと言える。留守筆頭の王太子は賢かった。彼は聖職者(第一身分)、貴族(第二身分)、平民(第三身分)からなる三部会の同意を取り付け、権限の掌握と国の再建を果たす。彼は国家意識に目覚めた。対する住民にも類似の意識改革が始まっていたと観るべきだろう。
- 王太子は即位してシャルル五世になった。身代金はイングランド王すら支払いを危ぶむほどの金額だった。シャルル五世はそれをテコに財政の近代化に成功する。それまでは年貢の上がりが財源であったが、人頭税、消費税、塩税という後の絶対王政を支えた財政の3本柱を軌道に乗せた。はじめは戦後処理の臨時税だったが、やがて王室の恒久収入となり、三身分に左右されなくなる。苛酷な身代金や賠償金は強烈なカウンターパンチになって跳ね返ってくる時がある。歴史のこの次の好例は一次大戦のドイツであろう。ヒットラー台頭で、世界は二次大戦という代償を支払わされた。スペインの相続紛争も幸いした。傭兵を戦地に赴かせて盗賊問題を収束し、勝利に終わるや、対イングランド戦へ転戦させる。傭兵隊長は大元帥となり、傭兵は常備軍となる。懐が暖まったおかげである。スペインで赤痢を貰った黒太子が死亡し、権謀術数のフランス王はフランス内の領土を徐々に旧に戻し始める。
- 両王国に少年王が即位する。どちらも内政整備に余念がない。この頃は両国関係は小康状態になる。百年戦争の前期後期の境となる平和時代は10年ほどで終わる。王が少年である。もう本書で食傷気味になった内紛がまたも両方で起こる。ただその内紛はフランスでより派手だった。イングランドの方が王位交替が早く、継いだヘンリー五世が英邁な武闘派君主だったため、たちまちにフランスが劣勢に追いやられる。現フランス王シャルル六世の死後は、「両王国は統合され、ヘンリー五世とその後継者に支配される。」というトロワ条約さえ締結される。ヘンリー五世はフランス語が出来なかった。それに象徴されるように、国家意識、ナショナリズムが対仏戦を、領土争いから外国侵略戦争的性質に変えていった。百年戦争の後半は英仏戦争である。だがヘンリー五世の死がまたまた歴史の行方を混沌とさせる。
- オルレアンが包囲されて風前の灯火となった時に、奇跡の少女ジャンヌ・ダルクが現れる。シャルル七世はまだ侮りがたい勢力を保っていた。彼女に鼓舞されて町を解放し、ランスの大聖堂で彼女の出席の下、戴冠式を挙行する。フランス王と認められるにはランスでの戴冠式が必要だという。慌てて両国王を名乗るイングランド王もパリでフランス王戴冠式をあげたが、無意味に終わった。農民の娘であり、身分制のやかましい当時は、史書に無視して当然の存在であったらしく、戴冠式に漕ぎつけて貰ったシャルル七世は火刑を救おうともしなかった。ジャンヌ・ダルクは後世の呼び名で、火刑のころは下女のジャンヌと書かれた。太平洋戦争時の日本軍兵士のように、消耗品と思われていたのかも知れない。彼女を歴史に再登場させたのはナポレオンだそうで、意図は明白である。ナショナリズムの高揚に絶好のヒロインだからだ。以後彼女は伝説の聖女になる。火刑に処したカトリック教会が掌を返す。坊主とはまあそんなもの。シャルル七世は、やがてイングランド王国の影響力を次々と剥ぎ取って行く。1453年にボルドーが陥落して百年戦争の幕が閉じられた。ボルドーワインが大量にイギリスに船で送られていた歴史を聞いたことがある。長い間ボルドーとそれを取り囲む地域は、イングランドの封土であった。
- 両王国は中央集権的国民国家への道をひた走る。個々の家と領土の上にローマ教王と神聖ローマ帝国皇帝が聳え立っていて、彼らが世を統べるという意識から、国民があって国家があるという意識へ変革されて行く。中世より近世、近代へだ。その過程でフランスでは、フランス王の国家統一という大事業があり、イングランドではバラ戦争を経た強力王朝の出現がある。前者の仕上げは、王国と同じ道を歩み出したブールゴーニュ国家の撃破であった。元々独立性の強い諸侯の内で、ブールゴーニュ公は支配版図が特に大きく、フランドル地方という商工業地帯をも含んでおり、百年戦争に於いても親イングランド傾向が強かった。オランダ、ベルギー、ルクセンブルグはフランス王の攻撃に対し生き残った地方である。バラ戦争は見かけは王位簒奪合戦だが、終わってみれば擁立諸侯の衰微で王権の一人勝ちになった。15世紀末までに起こった話である。
('11/10/30)