酒井抱一と江戸琳派

千葉市美術館の「酒井抱一と江戸琳派の全貌」展を鑑賞した。抱一生誕250年記念展である。NHKがこの展覧会を紹介したと口伝えに聞いたのが、出かける決心をした切欠であった。江戸琳派という言葉は全く知らなかった。酒井抱一は名をかすかにどこかで聞いたという程度にしか記憶にない。ひょっとしたら、TVの「なんでも鑑定団」の出品か何かで覚えていたのかも知れない。それに抱一を「ほういち」(ほういつが正しい)と覚えていた。「ほういち」は耳なし芳一と同音名だから、あのオムニバス映画「怪談」の強烈な印象からの連想で頭に入っていたようだ。
3ヶ所の美術館で持ち回り開催する。最初が姫路市立美術館、次がここ、最後が細見美術館となっている。細見美術館の名は、展示会場でも美術品の所属先として時々眼に入ることになる。京都の岡崎にある。平安神宮や図書館、近代美術館などのある文化施設集中域だ。私はこの5月にその界隈を歩いているのに気がつかなかった。インターネットで調べてみると、開館は昨年3月で、大阪の実業家、細見家三代の蒐集をもとに、琳派や若冲など江戸時代の絵画に優品を所持するとあった。年1-2度は訪れる京都に、新しい観光スポットが出来たと嬉しく思った。今年の正月に私は、千葉市美術館で「帰ってきた江戸絵画〜ニューオーリンズ ギッター・コレクション展〜」(本HP「帰ってきた江戸絵画」)を観た。それもそうだったが、今回もそうだった。千葉市美術館は小粒ながらなかなか味な展覧会を開く。2時間たっぷりを鑑賞に使った。1日おいて又鑑賞に出かけた。
弟子が師匠の作品図録を残している。どの師匠にもではなく大師匠に対してではあるが。現代なら精密な美術印刷が使えるが、当時は写真すらないから冊子の大きさに縮尺模写する。大変な手間だ。図入りの作品目録を後世に残す。たとえそれが江戸琳派の発展のためであっても、図録の資料価値を意識していたことが、美術史上画期的であったのではないか。現代に伝わった絵もあるが行方不明の絵もある。隙間を埋める資料としてきっと有力なものだろう。私は洋の東西を問わず現役の芸術家が、師の残した作品の図録のために、時間と労力を惜しまなかった実例をまだ見聞きしたことがない。
本展で江戸琳派は昭和初期まで続いたと知った。展示室の解説文によると、光琳が京都に残した系列は京琳派というのだそうだ。京琳派という流れも全く知らない。あとで調べてみると、昭和前期まで神坂雪佳が活躍したとある。日本画の歴史など無縁だった私でも、尾形光琳とか同年代の俵宗達については多少の知識がある。光琳の八橋図はNYのメトロポリタン美術館で見た。燕子花図もどこかで見た気がする。宗達の風神雷神図はさて本物を見たことがあったかどうか怪しい。でも京都国立博物館に委託保管されているというから一度は見ているだろう。「怪しい」には意味があって、日本画の流派は始祖などの秀作を模写したり、同じ構図でオレ流に描いたりするから、作者についてはどんどん曖昧になり、ただただ鑑賞した時の絵の輪郭だけが頭に残るという過程を辿るということだ。「八橋図」「燕子花図」「風神雷神図」の3点を挙げたが、同じ画題で、同じ構図でやはり弟子が描き残している。今回の展示にも何点か出品されていた。そのときの頂点を行く画家たちの作品である。いずれも見事で、同じ題名の絵を並べて鑑賞する機会など来るはずもないが、もしそれが出来たとしても素人目には多分甲乙付けがたかろう。
酒井抱一はまことに恵まれた生涯であった。譜代大名15万石・姫路藩藩侯の次男に生まれた。本展が姫路から始まる理由であろう。だが姫路に滞在した期間はごく短いそうだ。人生の大半は江戸である。両親祖父母兄弟とも揃って優れた文人であったらしい。仲睦まじかった家族の姿が合作の数々からうかがえる。藩主の兄が死去し、藩邸での居場所を失って37才で出家する。光琳の直接の弟子であったわけではない。年代が離れている。光琳の作品に傾倒して行く内に、光琳が切り開いた画風の継承者になった。江戸琳派の始祖である。出家しても吉原通いは止めなかった。その道の通人で交友関係を広める好都合の居場所であった。花魁を身請けして内妻にしたとある。ワシントン・ナショナル・ギャラリー展(本HPに紹介あり)で見たマネの「オペラ座の仮面舞踏会」に出ている女は高級娼婦だそうだ。高級とは上流社会の交際の場で通用するだけの教養を持っていると云うことだ。かの花魁もまさにそれにふさわしい女性であったらしく、抱一の絵に賛を入れている。東西の似たような時期の娼婦事情がこうも似ているとは、奇妙な一致である。
抱一の「ヒポクラテス像」は唯一の洋画である。小品だが研究熱心であった彼を物語る特記すべき作品だ。「雪舟写金山寺図」も勉強熱心を示す作品だ。鈴木其一は家来筋の直弟子である。展示数は抱一に次いで多い。私は後にも述べる理由があって人物群像が好きなので、彼の「吉原大門図」は印象に残った。時代劇では象徴的な場所だし、わざわざそこを見に行ったこともある(本HP「新吉原を行く」)。「林檎花図」は旅の証だろうか。「兎に秋草図襖」は秀逸と思う。風に秋草がなびき白兎が走っている。風の表現がよい。草木の表現に優れている絵画は他にも多いが、動物の躍動感を添えているのはこれだけだった。
抱一の藩からの最初の付け人は鈴木蠣潭で優れた画人でもあったが早死にし、其一が養子となって地位と家を継いだ。居宅工房の雨華庵を引き継いだ二世が酒井鶯蒲で、あと三世、四世とつながれて行く。四季の動植物を描いた屏風仕立ての絵は何双も見た。花は判る。江戸の町では身近だったろうが、今の東京では探すのに困難な花もある。女郎花がその代表だ。藤袴などもっと難しかろう。葛の花にも滅多にお目に掛からない。描かれた桜はヤマザクラばかりで、まだこの頃はソメイヨシノは多くはなかったのかも知れない。流水の這入った山水画も多い。金泥線で描かれた水流は琳派の特徴なのだろうか。江戸では御用絵師集団・狩野派の存在は常に念頭にあったと思う。昭和前期まで活性を維持した理由の一つは、始祖が画才に富んだ軍団の創設に成功したからでもあろう。
現在の日本画は洋画と区別が付きにくいが、これまでの絵は淡白清楚平面的線画的といった特色が歴然としていた。抱一は高価な絵の具を惜しげもなく使ったという。大名家の貴公子であれば当然だ。でもこの高価が、一般には、中心注目テーマだけに絵を絞り背景はさっと流して描く理由の一つなのかも知れない。「ヒポクラテス像」では立派に人物の顔を個性豊かに描いているのに、日本画に戻ると、三十六歌仙のような群像の場合には別だが、どの顔立ちもよく似た没個性の絵になる。美人とか宮廷人を描く時は、ことさらに没個性が本筋であったようにも受け取れる。仏画の影響なのだろうか、江戸期という非個人主義的社会がそうさせるのであろうか。それに美人画はポーズまで似ているものが多い。片足を引き幾分うつむき加減で、横顔を見せる。だから背筋が伸びていない。
写実的でない理由の一つに、絵の具の種類がありそうだ。本当の色を忠実に復元するには絵の具が足りないから、超印象的な絵に仕上げるのではなかろうか。私は先述の通り絵を見る能力は低い。「八橋図」「燕子花図」「風神雷神図」については述べたが、似たような画題の、しかも同じ流派の年代こそ違えそれぞれ一流の画家が、丹念に描いた絵画を見比べていると、概して新しい絵ほど上手に見えてくる。化学的物理的劣化が無く、つまり皺も色のくすみも剥離もなく、色が鮮やかだ。ひょっとしたら顔料も進化しているのかも知れない。いろいろ考えさせられた展覧会であった。

('11/10/22)