高崎日帰り観光

高崎に出かけた。新幹線だと11時には着けるのだが、湘南特別快速ライナーとかで1時間遅れの12時前に着いた。観光の目玉は県立歴史博物館だが、HPを見る限りレストランはない。そこは交通不便なところらしくバス便も少ない。昔そんなシチュエーションになって昼抜きになったことが頭を過ぎる。市内観光と云ってもお城跡ぐらいで時間をもてあます可能性が高い。午後の最初のバス便が13:20になっている。あえて新幹線を選ばなかった理由である。他所では確実な手段を選ぶに限る。駅で弁当に岩魚鮨を買い、高崎城址公園で食べた。岩魚鮨は知らなかった。結構値は良かった。城跡は三の丸の濠が残る程度。
博物館で知ったお城の事情を先に書いておく。そこには家康江戸入府の頃の上野国の大名配置図がある。まだ秀吉が天下人であった時代だったが、徳川幕府時代の関東一円の大名配置の雛形になっている。我が千葉県と同じく、10万石を超える大名は少なく、高崎藩と館林藩の、四天王の2人だけで、その間や周辺を中小大名がひしめく。さらに直轄領とか旗本領とか寺社領が加わるのだから、地元民の支配は複雑だ。おそらく千葉のように農家の1軒を半分づつ、2領主が支配するような事態もあったのであろう。それに頻繁に領主家の移封交替がある。江戸の求心力は強く、地元文化は育ちにくかろう。お上を当てにしない気風が自然に出てくるだろう。関東の外でも行われたが、大大名は動かなかった。100万石の加賀と比較すれば、自ずとそんな感想が出てくる。高崎藩は中山道と三国街道の交差点だから、外様に対する防衛拠点として重要である。高崎城址公園を石高の割に大きいと感じたが、四天王の戦に関する嗅覚がそうさせたのであろう。だが西に見られる高い石垣のお城と違って堀と低い土居だ。戦になったら長くは持たないこと必定だ。家康はきっと、旗本八万騎が駆けつけるまでの10日間、守ってくれれば良いという戦略だったのだろう。それに譜代大名と云っても、強すぎる身内は後々のガンになる。
さて13:20のバス「ぐるりん」に乗り、約20分で群馬の森の到着。バス道両脇とも家屋がぴっしり並んでいた。家並みの統一性はなく、色彩も様式もてんでばらばらでお世辞にも美しいとは云えなかった。旧中山道の標識を所々で見た。TV番組「なんでも鑑定団」に歌川広重の「木曾海道六拾九次之内・中津川」が2種出品された。その内、「雨の景」は世界に数点しか存在しないという版画で1千万円を超える値が付いた。まだ記憶がvividであったから中山道の標識が目に入ったのであろう。江戸から京都に向かって高崎宿、倉賀野宿(12番目の宿)、新町宿と続く。ほぼ1里半6kmの間隔だ。バス道はほぼ旧中山道に乗っているらしい。JR倉賀野駅あたりの街道筋には古びた木造家屋が所々残っている。森に群馬県の公共文化施設が並んでいる。私はお目当ての歴史博物館に入る。
バスストップから群馬の森入り口の守衛室までのプロムナードは、背の高いホオノキの並木だ。横に小川がある。なかなかの雰囲気だ。近代美術館と歴史博物館は隣り合わせだった。前者ではシャガール展を開いていた。見る時間がない。近代美術館の一端に、外見だけれども、瀟洒なガラス張りのレストランが見えた。知っていればもっと早く来たのにと残念に思った。南関東のヒトは新幹線で来て両方見るようお勧めする。この歴史博物館の値打ちは、観音山古墳出土品の展示と官営富岡製糸場関連の展示であろう。前者は盗掘を免れたために、副葬品や埴輪が多種かなり完全な姿で見ることができる。後者は今日の新聞に世界文化遺産登録候補として申請すると出たばかりである。
私は反時計回りで見学を始めた。別段理由があるわけではない。習慣である。見学回数では一番多い佐倉の歴博が、反時計回りだと、古代から時間を追って見学できるようになっている。会津の福島県立博物館、宇都宮の栃木県立博物館も反時計回りだったように思う。千葉県立博物館は時計回りだ。この博物館は時計回りで展示されていたために、近代から遡って展示を見ることになった。そう規模の大きくない博物館だったので、これでもよかったのだと思う。見学者は私以外1−2人だった。説明員は古代の展示室あたりに1人いたようだ。館内ツアーのような企画はないようだった。以下巡った順に感想を述べる。
館の小冊子「総合案内」に群馬交響楽団の写真が最後のペ−ジに出ている。パネル展示にもあったかどうか忘れたが、群響は映画:「ここに泉あり」で知っていた。京都に生まれ育ったので、群馬との関係はほとんどなかった。でも群響だけはこの映画鑑賞のせいで覚えていた。敗戦直後に個人の熱意で生まれ、市民の支持で今に育った希有の存在だ。映画には山奥から先生に引き連れられた学童が聴きに来ていたシーンがあったように思う。山奥へ帰る子どもたちに「あの子たちはオーケストラを聴く機会が再び来ることがあるのだろうか」という意味のナレーションがあった。現在の大震災後の東北地方とイメージが重なる戦後の虚脱状態から、立ち上がる意欲を与えた文化活動として広く顕彰された。あの馬力を東北にも期待したい。
太平洋戦争の華・中島飛行機の創始者の紹介は、はっきり「郷土の誇り」的展示になっている。太平洋戦争時の日本陸海軍共同計画の超大型戦略爆撃機「富嶽」の模型があった。六発エンジンのB29対抗機だったようだ。中島飛行機で計画されていたとは知らなかった。開発遅れ、戦況悪化で試験飛行まで行かなかったらしい。
江戸時代の中頃から群馬には養蚕製糸織物業が栄えた。絹は、横浜開港の頃から欧米に貿易から閉め出される頃まで、ずっと日本の主要輸出産品になった。明治に入って早々に産業育成事業にまず絹産業の近代化が取り上げられ、官営の洋式製糸場が富岡に置かれたのはごく自然な勢いであったのだろう。
富岡製糸場の展示にはいわゆる女工哀史的な雰囲気の掲示はなかった。女工哀史の舞台は長野県で、映画:「あゝ野麦峠」(大竹しのぶ主演、1979)での少女たちの労働と宿舎生活は苛酷な印象であっただけに、幾分はぐらかされた気がした。これは岡谷の蚕糸博物館(本HPの「蚕糸王国・岡谷」)を見た時も感じていた。須坂市立博物館(本HPの「田中本家博物館」)は哀史に否定的であった。否定でも肯定でも一向にかまわぬ。日本の社会潮流の起点の一つである。建物の模型展示や技術紹介だけで終わって欲しくない。「歴史」博物館の看板を大切にして欲しい。
工女の待遇を示すパネルがあった。明治6−7年だ。外人が並で50$(今の200万円ほどか)/月、日本人が三等1円(今の1.5万円か)/月とある。江戸末期の旅籠の女中がよくて銀20匁(今の1.5万円ほど)/月、大店の男子奉公人が初任給で4両/年(今の1.7万円/月ほど)だから、お雇い工女の給与はべらぼうだけれども、日本人工女の金額はまあまあだ。労働時間は9.5時間/日で、休憩時間、昼食時間をその中に含む。おそらく外国人労働者が入っている手前もあり、苛酷な就労を少なくとも建前としては避けたと思われる。問題の長野からの工女は11人で、彼女らが国に帰って技術指導したのだろう。長野では12〜13時間/日労働で、監獄同然の宿舎生活だったと云われている。少女を親から隔離する労働事情が、特に長野に女工哀史を生む理由となったのではないか。出身地別では群馬、埼玉で8割近くを占める。洋式工場の労働事情を、多人数のこれらの県では受け継ぐことが出来たのやも知れぬ。
新田義貞で有名な新田荘はその7代昔の先祖が、上野国新田郡西南の「空閑(こかん)の郷々」を成立させた時から始まる。空閑とは荒れ地のことで、そこを開拓して勢力範囲にしたと云うことらしい。「一所懸命」の意味が「空閑」から感じ取れる。利根川北の太田市、伊勢崎市あたりらしい。支配はやがて新田郡一円に及んだというが、この面積ならまあ10万石大名といったところで、建武中興の2年後に足利尊氏に滅ぼされたのは、実力の差であったと思った。
上野国国分寺を承継している寺院はもうないようだが、地名は高崎市に残っている。パネルの塔は7重であった。市原市の上総国分寺のそれも7重だった。60mHからあっただろう。奈良時代の地方の実力に思いをはせた。
観音山古墳は群馬の森の近くらしい。前方後円墳である。墳丘長97m高さ9mあまりで2重の濠を巡らしているとある。仁徳天皇陵は500m近い墳丘長だ、この中央の大王のとでは比べ物にならないが、関東では有数の大きさのようだ。同じ群馬の太田天神山古墳はこの倍ほどだとあるが、昔見たさきたま風土記の丘の中の古墳は、観音山古墳とドッコイドッコイの大きさだった。とにかくどの古墳も2重の濠があるところまで、大和の古墳と構造が似ている。中央の威令が浸透した証拠である。1部屋分をほぼ占領した観音山古墳の出土品はすばらしい。なぜこの古墳だけは荒らされなかったのであろう。葬儀の様子を示す埴輪の造形が写実的だ。手を合わせている男女の像からは場を支配する雰囲気が伝わってくる。祭主らしい男子は後継者だろう、巫女は司祭だろう、三人童女はきっと泣き女である。童女の表情が、今にも涙が頬を伝わり落ちて来そうな泣き顔なのが印象深い。
同じ古墳の出土品ではないが、飾り馬の埴輪がある。首長の葬儀に参列した馬だろう。馬の頸を飾る鈴の付いたベルト、サドル、鐙、その後ろの飾り鈴などが見て取れる。観音山古墳からはベルト用の鈴と飾り鈴が出土した。きらきら輝く金鈴である。先日の新聞に副葬の太刀(この古墳ではない)の象眼から、日本書紀の記述が証明されたという記事が載っていた。朝鮮暦の年号が入っていたのだった。稲荷山古墳の有名な象眼直刀の複製は歴博で見た。赤さびでぼろぼろの太刀が意外な歴史証人になる。この古墳の太刀は考古学にとってどんな意味を持っていたのだろうか。
オオツノシカの骨格標本がある。春日山などで見かけるシカよりはるかに大きい。今のシカとは別種のようだ。ジオラマで原始人のオオツノシカ狩猟状況を見せている。沼に追い込んでいる。屋久島にゆくと、えらく小型化したシカが野生で生活している。屋久島には本土よりずっと小型化した動植物が他にも見られる。千葉県立博物館にはナウマンゾウの標本があった。今の大陸のゾウに比べればナウマンゾウは小型だ。生活圏が狭くなると、生き延びられる種は小さくなる良い例だ。
企画展は準備中だった。その前に独立に小学校の教室が置かれている。私が学んだ頃の教室そっくりである。粗末な机と椅子。椅子に座ってみる。小さくて窮屈だ。1組50人ほどだったのかな。給食の蝋細工品が展示してある。私の頃にも給食はあった。団子汁を覚えている。学童の中の給食係が、並んだ生徒の持つ椀に杓で入れて行く。「自分だけ具が少ない」と泣いた男の子を覚えている。先生が自分の分からそっと分け与えていたようだった。給食は時の流れに応じて洋食化し、米食化し、豪華化した。敗戦の頃の食糧難を経験しているものにとって、ユニークな展示であった。かつかつ自給率100%の時代でもあんな状態だったのだ。農業派議員や農水省は自給率をせめて50%にするために、TPP協定を排除し、米関税700%弱を維持したいなどという。馬鹿もほどほどにせよと云いたい。
約2時間見学してふたたび「ぐるりん」で高崎駅に着き、17:09のMAXで東京まで約1時間。我が家には7時半頃になった。何しろラッシュアワーで、東京から千葉までの快速は立ち尽くめであった。

('11/10/02)