インフレーション宇宙論
- 佐藤勝彦:「インフレーション宇宙論〜ビッグバンの前に何が起こったのか〜」、講談社BLUE BACKS、'10を読む。私たちの常識は、限りなく小さい世界から途方もなく大きな世界までの間の、ごく限られた範囲を占めるに過ぎない。素粒子の世界から宇宙の世界の中程の狭い範囲である。そこからextrapolateして考える世界は矛盾に満ちている。中性子や陽子の中という極小世界については、村田次郎:「「余剰次元」と逆二乗則の破れ〜我々の世界は本当に三次元か〜」、講談社BLUE BACKS、'11(本HPの「万有引力則の破れ」)で教わった。たいして理解できなかったが、常識外れの世界にたいしてもう驚かないぞという覚悟はできあがった。本書はビッグバン以前の宇宙について語るそうだ。さぞかし奇想天外なのだろう。
- ビッグバン理論では時間ゼロで物理学は破綻してしまう。密度は無限大、温度が無限大の特異点になるから。特異点とは1/0の世界。素粒子では朝永振一郎先生の「くりこみ理論」が特異点の困難を突破したと聞いている。宇宙でそれに対応するのが著者の唱えるインフレーション理論だ。最初は「指数関数的膨張モデル」と称した。ところが著者と並行的に独立に同様の考え方を「インフレーション理論」と称して提唱したグースという研究者がおり、こっちの方が通り名になってしまった。ネーミングは存外に普及に大切で、この2人の場合、グースの名だけが生き残る可能性を秘めている。私にも「たまねぎ理論」という提案があるが、名付け方もよかったのであろう、外国ではonion-peeling theoryと翻訳されて概念として通用している。
- 「万有引力則の破れ」では極度に弱い力重力をなんとか他の3つの力:電磁気力、弱い力、強い力と大統一できないかという努力を扱った。本書には宇宙誕生直後の高温状態では力は一つのものだったが、10^-44秒後まず重力が、10^-36秒後強い力が、10^-11秒後残りの電磁気力と弱い力が分かれたとある。この分離は「真空の相転移」が原因である。真空はなにもない空間ではなく、粒子と反粒子が対生成・対消滅を繰り返す物理的に実体のある空間だ。相転移は温度によって物理的性質が変化する状態を指す。ニオブの相転移による超伝導の出現が例に示されている。宇宙が生まれたとき「真空のエネルギー」は高い状態にあり斥力として働く。そのため宇宙は膨張し、温度が急激に降下する。相転換により真空のエネルギーが熱エネルギーに変わり、そのとき宇宙は火の玉と化した。宇宙の指数関数的膨張の開始点は10^-36秒後である。ここより光速を遙かに超える速度で宇宙は膨張した。宇宙の年齢は137億光年だが、1000億光年の先にまで宇宙は広がっている。宇宙創生前とは時間も空間もエネルギーもない状態だが、そこからトンネル効果的に大きさを持った宇宙がポッと生まれ出た。創生前の時間は虚数時間で計られる。はて何のことだ?
- 宇宙創生期の火の玉は点ではなく、ナノメーター・オーダーの広がりを持っていたとインフレーション理論は教えるそうだ。だったらそこには量子のゆらぎがあったろう。火の玉が大膨張して今日の宇宙になった。量子のゆらぎも大膨張を遂げて観測可能になっている。星も星雲も宇宙に均一に分布していないし、それらが蜘蛛の巣構造を取っているようにも見える。定量的な研究は、火の玉の名残であるマイクロ波を、人工衛星で観測することにより行われた。マイクロ波の強度には空間分布があって一様ではない。凹凸の分布が相対論にはめて計算される値に見事に一致する。一致すると云っても任意常数であるハッブル常数、バリオン密度、ダークマター(暗黒物質)量を適切に取るという作業はある。インフレーションが仕込んだ凹凸が宇宙構造を見事に説明した。私の工学屋としての生活は「混ぜる」から出発し、いろいろ脱線の末最後はまたまた「混ぜる」に戻って終わった。「ままこ」が残る原因は凝集力と分散力のバランスが悪いからである。量子のゆらぎには通じるところがある。
- ダークマターの存在が確信されるようになったのは、20~30年前あたりからという。私の認識は、小柴さんの本「ニュートリノ天体物理学入門」(本HPに書評あり)をノーベル賞を取られたときに読んでからだ。本書にはさらにダークエネルギーが「ダーク」の縁者として加わった。'98年発見とある。南部、小林、益川3先生のノーベル物理学賞受賞に刺激を受けて、祖父江義明:「銀河物理学入門−銀河の形成と宇宙進化の謎を解く−」、講談社Blue Backs、'08(本HP「銀河物理学」)を読んだ。ダークエネルギーは最後の最後にちょっとだけ載っている。ビッグバンで宇宙の説明がなされていて、インフレーション理論は入ってない。経時的に比較すると時代の認知の変化が分かる。私らが「もの」ととらえている宇宙構成要素はたったの4%で、残りはダークだ。そのうちダークマターが23%、ダークエネルギーが73%だとある。ダークマターが重力レンズで実証され、ニュートリノの果たす役割は思ったほどに大きくはないというところまでは分かった。
- 超新星の観測で第2のインフレーションが宇宙創生より60億年目に起こったと判った。宇宙はまたもや加速膨張を起こし現在に至る。第1のインフレーションの根源と同様その馬力は真空のエネルギーにある。でも数年前からそれはダークエネルギーと呼ばれている。第1のインフレーションでほとんど使い果たされたはずだが、真空のエネルギーは空間に依存するもので膨張しても密度が減少したりしない。だから相当に大きくなった60億年後にまたもインフレーションが起こった。でも元の密度がごく小さいから、今度の膨張速度増加は100億年で倍になるというごく穏やかなものだという。驚くべきことに、真空のエネルギーの存在が金属板の引き合う力という実験で証明されたという。こうなるともう信じるしかない。
- 「ブラック」は「ダーク」よりも一般市民にはお馴染みだ。さらに1000億年を経たら世界はどんなに変化しているかという章があって、その頃からブラックホールが中心的存在になってゆくというお話がある。コラムに我らの天の川銀河の中心付近に巨大なブラックホールが実在する証拠が挙がっている。重い星が中心近くで高速回転している。天の川以外の銀河でも中心付近にブラックホールがあると考えられているそうだ。こんなブラックホールも今は周辺の光や物質を吸収して膨張しているが、それが無くなってしまうと黒体輻射によって徐々に蒸発を始め、やがては消えてしまう運命にある。それが10^100年頃で、宇宙は膨張を続けているから電子、陽電子、光、ニュートリノだけの薄い何もない冷たい世界になってしまう。光はあると云っても何京光年という波長のとんでもない電波だ。
- タイムマシンには「親殺しのパラドックス」がある。過去に遡って親が殺せたら自分が無くなる、すると遡る自分が存在しない、これはパラドックスだという話である。でも我らが知っている宇宙はせいぜい1000億光年程度の広がりだ、その外には同じような別の宇宙があるのかも知れない。世界はマルチバースだとしたら、過去に戻ったつもりでも別の宇宙に戻っていて、自分に繋がる親殺しをしたのではないなら、パラドックスではなくなる。マルチバースはmultiverseでユニバースuniverseのユニuni(単一の)をマルチmulti(たくさんの)に取り替えた言葉である。村田先生の「万有引力則の破れ」にも膜宇宙論が出ていた。本書はもっと比喩的にそこから考えられる多宇宙の世界を描いてみせる。でも10次元11次元の空間に我らの3次元の膜宇宙があるという話は、曼荼羅の世界を引き合いに出されてもさっぱりイメージできない。
- 物理学者の煩悶に「人間原理」があるとは知らなかった。人間原理とは基本的物理定数が人間存在にもっとも都合がいいように選ばれている、その物理定数がちょっとでも現状値から外れるとこの世が存在しなくなると云う偶然が、あたかも神の恵みであるかのように見えることを指す。電磁気力と強い力の組み合わせだけでも、ごく限られた範囲でしか現在ほどの元素の多様性は確保できない。インフレーション理論はそのうちの一つであった「平坦性問題」を神の手から解放した。インフレーション理論はマルチバースを予言する。偶々人間原理の成り立つ宇宙があってもおかしくないというのが、著者の神を前提にしない考え方だ。冗談かも知れないが、宇宙には10^123個というヴァリエーションがあるのだそうだ。
('11/05/21)