胎児の世界
- 三木成夫:「胎児の世界〜人類の生命記憶〜」、中公新書、'83を読む。著者はすでに亡く、理系の書としては異常に古い。著者について私は何も知らない。だが22版を重ねたとは、よほどの学者でかつ名著なのだろう。ただデータの古さは頭に入れておかねばならぬ。例えば冒頭に生命誕生以来30億年とある。私の本棚の中村運:「生命進化40億年の風景」、化学同人、'94では10億年のびて40億年になっていた。岩堀修明:「図解・感覚器の進化〜原始動物からヒトへ、水中から陸上へ〜」、講談社Blue Backs、'11(本HPの「感覚器の進化」)では38億年となっていた。記述の行き過ぎや間違いにも注意が必要だ。
- 発生学の知識が次第に一般に流布されるようになって、受精から出産に至るまでに、胎児は、進化の歴史を一通り復習してみせることも常識になった。ヒトがヘビやワニに本能的に恐怖を覚えるのは、あの形が同じ爬虫類の恐竜に似ていて、哺乳類が彼らの捕食から逃れるために隠れ住んだ記憶が、無意識の中に本能として引き継がれていて、目にしたとたんそれが蘇るためであると、まことしやかに唱える心理学者もいた。なんだかおどろおどろした胎児の世界を覗いてみたいのは、私だけではなかろう。
- 右脳・左脳論が出ている。知性の右脳、情感の左脳という区別だ。本書が世に出る頃は有力な学説であったらしい。でも脳はもっと融通性に富み、ことにヒトでは後天的な学習や訓練が重要であるという証明が次々に出てきて、今では右脳・左脳論は、その傾向なきにしもあらずといったレベルの、俗説に毛が生えた程度と考えられているはずだ。fMRIによる脳活動位の研究は分解能的にはまだ十分とは云えないながら、かなりに大脳生理に迫っているし、脳溢血後のリハビリの効用などTVで見る限りでも、脳のflexibilityは驚嘆に値する。
- 「日本人は虫の音を左脳で聞くのに対し、欧米人は右脳で雑音的に聞く。これを人種地図で探すと、日本人はポリネシア系だ。」という議論を引用しながら、著者は自身が椰子の実に心惹かれる理由を「生命記憶の回想」に持って行こうとする。詭弁のように響く。血液型の分布から日本人が西アジア=東ヨーロッパ人型だと云えることから、正倉院展の西域伝来品への血のざわめきを説明する。これも甚だしい飛躍だ。ただDNA解析の格段の進歩のお陰で、日本人が、北からも西からもあるいは南からも、遙かな旅の末に到達して、混血した結果であることは間違いがないと分かっている。
- 玄米飯に主食が換わってからの副食の嗜好が、動物食から植物食に変化した著者の経験が語られている。それを稲作導入以来の日本人の記憶に結びつけようとする。客観的データに基づく一般化があれば別だが、個人の食趣向を唯一の理由にした議論などまさに噴飯ものだ。母乳とは胎児の時代にはへその緒で繋がっていた母体の体液である。味も素っ気もない。たぶんそれは離乳後も永遠に基礎味覚として残る感覚であろう。でもそれ以上を母乳の味から窺い知る必要はないと思う。「感覚器の進化」で、脊椎動物間では、サンショウウオであろうとヒトであろうと、味覚器には本質的な相違はないと知った。でもそうだから無意識の底辺に発生以来の「憶」が伝わっているなどと云えない。まして本書はまだそんな感覚器比較が出来なかった時代の著作である。それでも進化の解剖学的比較は懸命になされている。羊水は古代海水環境の表現であり、受精卵が胎盤に着床して成育する中で、水棲動物時代を再現してみせるという図解入りの記述は、参考になった。
- このHPには 河合隼雄:「無意識の構造」、中公新書、'77をときおり引用している。その一つ 「脳と性と能力」では、その本が、研究領域からあまりはみ出ない良心的な著作であると評している。無意識を2階層に分け、意識に近い個人的無意識の下に、普遍的無意識があるとし、原始心像が心に躍り出る元型がこの深層に隠れているとしている。だが取り上げている心像は意味のある物語で、本書の味覚のような末端センサーの話ではない。無意識の深層の下にさらに感覚の深層があるというのがこの本の主張になるが、証明は永遠に不可能であろう。
- 昆虫は孵化後変態を繰り返しながら成虫になる。活発に動き回っていた蛹が繭に閉じこもるとピクリともしなくなる。変態は幼虫にとっての大事件だ。脊椎動物でも同じという。受精した鶏卵を孵化器で暖める。胚は細胞分裂を起こしどんどん成育する。だが、4日目後半になると生命力が弱まり、ピタリと発育が止まったかのようになる。それが丸1日経ると嘘のように生気を取り戻し、発育を継続する。この1日の間に卵の中では胎児の魚類から両棲類、さらに爬虫類への進化が再現された。ヒトとて同じだ。ヒトでは受胎から30日を過ぎてから約1週間で、脊椎動物が1億年をかけて上陸を果たした進化を再現してみせる。
- 中絶による胎児を観察する。つわりの始まる頃、受胎32日目の胎児は小豆大だ。胎児は顔を胸に埋めた姿勢をしているから、首を切って顔と向かい合う。その顔はフカとかサメのよう。鰓と原始肺を備えた古代魚類そっくりの道具揃えで、上陸か海棲かを迫られている頃の姿だという。34日目、上顎が左右別々で兎唇を思わせる状態になる。36日目、体長13mm。古代爬虫類の顔。写真は私には猛禽類の顔に見える。38日目、爬虫類に毛ものを重ねた相貌。呼吸系は空気呼吸を物語る。5本の指がはっきり分かる。40日目、体長20mm。目が顔面にくっきり出てくる。ヒトの面影がある。紛れもないヒトの顔になるのは70日を経てからだそうだ。つわり期は終わりを迎えているはずだ。兎唇は外観に現れるが、内蔵にも欠陥となって現れる数々の古代形象がある。肺静脈奇形には心臓と繋がらずに、古代の原始肺時代そのままの繋がり方になって生まれた嬰児が、幾例も述べられている。
- ヒトは小学生高学年の頃から老年期を迎える頃まで、恒常的に発情している。霊長類を調べてみた。サルでもヒトに近い種ほど発情期が長い。ボルボはほぼ人並みだが、ニホンザルでは発情の時期がある。どちらも真猿である。原猿では排卵の限られた期間だけだ。下等動物ほど排卵と発情がセットになる。ヒトも排卵が周期的である点では他の動物と共通している。著者のいう「いのちの波」が、周期性をもつことに異論を唱える人はいない。サケは壮絶な一生を送る例である。生まれ故郷の河川を出発し、大海を回遊する間は、もっぱら体細胞を増殖させる食に徹し、時期に至るとふるさとの河川を遡上し、生殖に専念したのち命を終える。遡上する頃には卵巣も精巣もはち切れんばかりに成熟し、腸は体内で押し潰されていて、放って置いても死なねばならぬ、生殖行動以外行えない体になっているという。原始脊椎動物のヤツメウナギも酷似している。カマキリのオスは交尾後メスに食われねばならぬ。ヒトでは消えかかっているが、食と性は天秤の左右のような関係にあったと思える例はいくつもある。
- いのちの波としてドラスティックな情報はいろいろある。アメリカの17年ゼミや13年ゼミ。スマトラオオコンニャクは昨年東大小石川植物園で開花し有名になった。7年ごとに巨大な花を開くという。我々も見学に訪れたが、入場には長蛇の列を並ばねばならず結局あきらめた。素数が選ばれる意味がいろいろ推論されているが、私には素数だと天敵を作りにくいという説がもっとも自然だと思える。この話とは別に生命体は7に縁がある。ウサギの歯の生長には7日の周期があるという。ヒトの薬の効き方も1週間が単位だ。死者との縁もそれぐらいで遠のく。さらに7回忌が過ぎれば過去の人である。ヒトの営みにお祭りとか儀式は欠かせない。7ではなくても不定期ではない。諏訪神社の御柱祭は7年ごと(実際は6年)であった。本書には伊勢神宮の20年ごとの遷宮式が挙げられている。
- 本書には7日単位の週暦はユダヤ教起源のように書いてあるが、本当は古代バビロニア時代にすでに慣習となっていた。陰暦では1月が28日=4X7で、7は都合のいい数字だ。天体運動ははすべてが周期を持つ。量子も波動の世界に収まっている。物理現象は一見何の秩序もないランダムの世界でも自己相似という周期で支配されている。東日本大震災では、東北地方は、海岸線がリアス式であったために、甚大な津波被害を出した。あの海岸線はフラクタル理論で表される。高安夫妻:「フラクタルって何だろう」、ダイヤモンド社、'88の口絵に、フラクタル理論に基づくコンピュータ・グラフィックスが載っている。山岳写真と云われても誰も疑問を抱かないだろう。
- ゲーテが出てくる、老子が出てくる。森羅万象に、少しづつ形を変えながら進む反復の波がある。著者はこれをいのちの波の根底理由としたいようだが、哲学論とか宗教思想としてならともかく、科学としてはそれにはどう考えても飛躍と無理がある。最後の方は呆れて飛ばし飛ばし読まざるを得なかった。著者の経歴を見てみた。執筆時は芸大教授であったらしい。東大医卒である。
('11/04/24)