平太の戊辰戦争
- 星亮一:「平太の戊辰戦争〜少年兵が見た会津藩の落日〜」、ベスト新書、'10を読む。「賊」軍一兵卒の従軍記である。私には歴史で学んだ戊辰戦争より、NHK TVの大河ドラマ:「獅子の時代」の平沼鉄次(菅原文太)、刈谷嘉顕(加藤剛)、もん(大原麗子)の演技で知った戊辰戦争の方が生々しく記憶に残っている。パリ万博幕府使節団随行員としての華々しい時代から、敗軍ののちの苦難の生涯を見せるスケールの大きな作品であった。本書は、藩士ではない、身分から云えば士農工商の工にあたる少年志願兵の、越後の野戦から会津籠城戦までの、最激戦区を戦い抜き生き残って、最後は出身村の村長を務めた平太の日記を纏めたお話のようだ。
- 彼の一家は窯業を生業としていた。お殿様から代々禄をいただいていたわけでもないのに、なぜ危ない戦場を親子で志願したのか。村の窯全体が藩の御用窯だったからと思わせる。陶業27軒から志願者36名というから、陶工全員が戦争に出たと云うことだろう。藩主が京都守護職になった時点で、手薄となった領国の補充兵としての兵役を、義務づけられたという伏線はあった。彼らに明治維新の大勢が分かっているはずがない。素朴に、これまでの藩侯の恩義に報いると云った発想であったのだろう。戦後、彼は会津藩首脳を「先見の明なく、無知短才」だったと批判した。太平洋戦争が終わって戦争前夜の事態が判明するにつれ、「天皇陛下の御為に」と、赤紙1枚で戦場にかり出された出征兵士の帰還後の叫びと、全くよく似ている。
- 戊辰戦争が越後から始まった意味を考える。越後には会津藩預かり領6万石があった。奥羽越列藩同盟の盟主会津藩にとって、唯一海に開いた補給基地である。越後は屈指の米どころだが、最大が新発田藩の10万石で、中小藩割拠状態だった。北は佐幕、南は尊皇、中央では双方が入り乱れている。一応旗印を掲げてはいるが多くは様子見姿勢で、取り込みかた次第では、今後の薩長軍対同盟軍の戦局を有利に展開できる情勢だった。当初の同盟軍は会津藩兵、長岡藩兵と旧幕府陸軍を軸に2千、薩長軍は薩長の1千余を軸に、5千という戦力であった。主戦力という意味では拮抗していた。武器も、函館廻りの蒸気汽船で新潟港に新式小銃7百丁あまり、ほか大砲に弾薬が到着していたから、4/上旬頃から始まる緒戦では双方にそう優劣はなかったのではないか。初期の機関銃:ガットリング銃を長岡藩家老・河井継之助が購入していたことは有名だ。昔からの城郭は、越後の城が大規模でないこともあったろう、大砲弾の行き交う近代戦では、陣地の防御にあまり役に立っていない。それに越後戦役での中心:長岡城は元々戦争を想定していない城だった。でも地の利は守る側:同盟軍側にあった。
- 会戦は長岡藩領界の山々や峠の争奪戦が華々しかった。同盟軍が奪回に主力を投入したために、本陣の長岡城が手薄になった。藩主以下幹部をのぞいて兵・数10名という隙を、薩長軍に攻められあっさり陥落する。本書の暦が新か旧か分からないが、旧暦だったら戦争はまさに梅雨時だった。大雨が降り注ぎ泥沼の中で平太らが山地戦で奮戦している。信濃川はもう堤防決壊寸前であった。長岡城は川に囲まれた一見堅城風の城なのだが、このときは川霧が敵の近接を容易にしたとある。河井自らが操作した360発装?のガットリング銃の威力の甲斐もなく、自身は負傷し、総員が城を脱出を計らねばならぬ羽目に陥る。河井継之助は長岡藩中心の思考から抜け出せなかった。だが彼の中立論は所詮大局の中では井の中の蛙論だった。それが同盟軍としては絶好の戦機を、失わせたかのように描かれている。どの藩も佐幕派と勤王派が対立抗争する中の舵取りをしながらの戦闘であった。
- 再度の新式銃の陸揚げと時期を合わせたように、5/中に米沢藩1200名が越後に進出した。開戦後1ヶ月を経過していた。その頃に成ると両軍とも増強されて、薩長軍が1万2千、同盟軍が1万弱となった。薩長側では加賀藩が4千弱を出兵し、群を抜いている。最終的には兵力バランスが崩れ3:1ほどで薩長軍有利と成る。兵力が均衡し、一進一退状態だった6/下ごろ平太の第1次従軍が終わる。彼の日記から最前線の悲惨な様子が伝わってくる。焼き払われる民家。雨中を逃げ惑う難民。長刀片手の武家妻女。首を刎ねられた遺体。その懐中にある金子。当時は個人的にも相当の軍用金を持参したものらしい。野戦病院があった。本国会津には西洋外科医のいる、いわば陸軍中央病院があって、重傷者はそちらへ運ばれている。戦意維持に病院は重要だったとある。確かに戦傷で戦えなくなったら戦場に放置されるのでは、戦いを避ける方に気が向くだろう。
- 膠着状態を破るように長岡城奪回奇襲作戦が強行された。長岡藩士たちは一旦は落城の恥辱を晴らさんと「死ねや、死ねや」と泥中を突進した。そして首尾よく成功した。戦没者の慰霊祭を大々的に挙行するなどの同盟軍の戦勝ムードの中、突然の新発田藩の裏切りで戦局は一挙に逆転する。彼らは薩長軍艦船を引き入れ、1千名の兵を上陸させる。官軍は新発田藩兵を先頭に、手薄の同盟軍本陣と中腹に攻勢をかける。また新潟港を占領し、集積された兵器弾薬を奪うとともに火力の補給を絶つ。米沢藩には一応の警備体制はあったが、衆寡敵せずであった。
- 同盟軍の補給はイギリス船に頼っていた。危険は察知しており、薩長海軍への備えに旧幕府海軍の出動を懇請はしている。榎本艦隊は箱館戦争に参戦して破れるのだが、同じ参戦なら単純明快に戦機を把握して行動に出ておれば、勝てたのにとも思う。軍艦の欲しい薩長軍との駆け引きで曖昧に時間を費やし時期を失った。この戦役を通じて、同盟軍には統括指揮者−総大将−がおらず、局地戦的には勇戦しても、全軍としての戦略的戦闘が出来なかった。何か寝返りが決定的打撃になる点も含めて、関ヶ原の西軍に似ている。平太の1次従軍終了後わずか1ヶ月後の7/下旬ごろだ。彼は爾後総引き上げのための退路確保戦を強いられる。父は腕に貫通銃創を負う。ほかに3太刀を浴びていた。その傷が悪化し、やがて歩行困難となり、息子に付き添われて会津の病院に運ばれ腕の切断手術を受ける。越後の戦いで同盟軍側は1100名ほどの戦死者を出した。
- 奥羽街道側は守るに困難な地帯だった。同盟軍側の要衝・二本松城が三春藩の寝返りで陥落する。それが7/末。戦線は急速に縮まり、戦火が市内に迫る。16才の少年は41才の大の男を背負って病院から郷里へと避難する。10歩20歩でもう息切れしたとある。裸足だった。混乱の中でも少年を助ける人のいる人情あつい街だった。父はやがて錯乱状態となり死去する。その葬儀を終えてのち平太は病床に倒れ、会津籠城戦には参加できなかった。だが9/20の会津藩降伏のときは兵士であると名乗り出、謹慎の身となったが、やがて釈放される。関ヶ原合戦や大坂の陣の頃のような、仮借なき残党狩りは行われなかったようだ。会津藩は斗南藩として再興を許された。だが28万石が3万石に減る。下北半島での飢餓との戦いぶりは「獅子の時代」に再現されていた。平太は同行せずに、もとの陶工の道を歩む。彼の製作した「染付菊花文角口大花瓶」の写真が出ている。なかなか立派な作品だ。
- 武士道精神、人情、博愛、友情、友愛、団結心、残虐非道、阿鼻叫喚、狂気。兵士の日記には何でもありの戦場が生々しく描写されている。敵兵を殺してその生き肝をピクピク動いてる状態で食ったというような話まで出てくる。
- 著者経歴により、著者が東北に特化した著作を多く手がけている人であると知った。
('11/02/14)