知的生産の技術U
- 以下は梅棹忠夫:「知的生産の技術」、岩波新書、'69の後半に対するコメントである。
- 退職し都会に引っ越してからは、私の書籍に対する態度が変わった。図書館はもうあまり利用しない。工場勤務であった頃に、電車通勤の先輩が、車中で読む本は1000円までのものにしているとよく言っていた。私もそれを今実行している。ただし新刊書だけである。一般教養書ならそれぐらいの方がハンディで内容も纏まっている。もう書棚には整理をせずに、購入順に並べるだけだ。索引に相当するのがこのHPである。文献整理と同じ精神である。意味を感じる本はこまめにHPに雑感を載せている。電子書籍化という話題が時折マスコミを賑わす。検索手法も進んで、便利に記事を見つけることが出来るようになろう。平凡社の世界大百科事典がCD化されて販売されていた時代があった。あの大部の著作が何枚かのCDに収まるなんてはじめは信じられなかった。あれもキーワード検索程度は出来たように思う。あれがさらに文章からの文字を、インターネットでやるように自由文字検索できるようにすれば、なんとすばらしいことか。それが全図書に行き渡ればまさに情報革命である。
- 本は通して丸ごと読めと本書は言う。読み出したら余所見をするな、つまり一気に読み通せとも言う。著者の思想を把握するのに、半端読みや部分読みや拾い読みとか斜め読みでは間違う可能性がある。私はそれを実行している。読書カードに読書ノートを付けよと言う。読書カードは書誌事項、読書ノートは1項目1ページの読者の反応だ。要約ではない。形はインターネット利用になったが、私は上述のHPでだいたい似たような知識集積をやっている。年間100冊ほど読むという。それでも少ない方と謙遜してある。私などとてもそんなに読めない。「読書百遍意自ずから通ず」は、この情報過多の時代には、さすがに時代遅れだと書いてある。私も同感である。
- 応用数学の講義はなるべく前列で聴講した。板書に現れる細かな添え字を間違いなく書き取るためである。いつも教授は真っ先に、前回講義の区切りを確かめるために、最前列の学生のノートをのぞき込む。たまたま私のノートを見た教授が、個性的な字で綴っていると冷やかした。字下手は私の泣き所だ。卒業してすぐローマ字タイプライターを買った。教本で熱心に練習を繰り返し、何とか指が自在に動くようになった。私はローマ字表記論者でも何でもないが、何とか手書き文字に対する劣等感から逃れたい、手書きの労力と腕や肩の疲労から逃れたい、あわよくば英語の能力を向上させたい、まあそんな目的からだった。梅棹先生はローマ字タイプからカタカナタイプに進み、さらにひらがなタイプの自作にまで進んでおられる。私はすぐ飽きてしまった。だが覚えたタイプの技能は今パソコンの操作に役立っている。パソコンは表意文字の泣き所を変換キー1個で突き破ってしまった。それまでは日本語を何とか表音的言葉遣いに改めようとする運動が盛んであった。いまではローマ字表記論は全くの下火だ。それどころか、私は漢字も略字を一切廃止して元の正字に戻し、漢字文化圏のよりよき意思疎通に貢献すべきだと思っている。電子産業は国の文化をも変えようとしている。
- 何を生業にしてもタイムラグなしに記録を付ける訓練は必要だ。幼稚園からでも小学校からでも、字が書けるようになったら、即日記を付ける習慣を身につけさせるべし。私にはこの習慣がなかった。でも一念発起したことはあった。何回も挫折と発起を繰り返した。字下手はつらい。本書にもあるように、文字の美しさで人の品性とか知識水準を推し量るような時代だったから、人に見せない日記でも労力がかかって、なんだか無駄な作業のようなむなしさを感じていた。筆無精の理由でもあった。若い時代にはことにそうだった。どうせ自分だけのものだからと英語で書いた時代もあった。浅はかだったのは、そんなかけがえのない私的記録を、引っ越しなどの折に焼却してしまったことである。でもワープロを買ってから事情が一変した。もう字下手に拘ることはない。本書にはワープロ前夜の、せいぜいひらがなタイプライター程度にしか機械化していない時代の、私的文書の有効資料化についての工夫が、縷々述べられている。でもそれは、知的生産技術の根本法則として、受け取っておけばよい。ワープロの検索技術の進歩により、いまでは20年間に近い日記から、答え一発で、必要資料が取り出せる。
- 夏目漱石は好きだ。彼の文学論を読んだことがある。感情に訴える文章の集まりが文学だとあった。本書には感動的文章偏重の国語教育は、知的生産にとってマイナスだと言っている。たしかに、私の頃の学校国語は、国文学では、万葉集から始まる古文から、せいぜい大正期の小説に現代詩あたりまで、それから唐時代の漢詩を主とする漢文だった。現代に生きる社会人にとっては、正確に思想を伝える、機能的な文章の作成が求められる。私は中学生の時に同好会雑誌に解剖学教室見学記を書いた。それが私の外部発表の最初の文章であった。美しい文章にするために、装飾語の選択に苦労したことを覚えている。国語から国文学を切り離せという本書の主張は、当を得ている。
- 日本語は用法が格段に進歩し、今では英語と比較して遜色が無いどころか、英語にない利点をも多々見受けられる。明治からどれほど進歩したかを見るには、教育勅語や旧憲法を読んでみると判る。漢字カタカナ混じりの文語体で、漢文に送り仮名を付けた江戸期以来の伝統の形式だ。漱石の小説になると漢字とひらがなの口語体で、だいぶ言文一致が進んでいるように見えるけれども、難しい漢語が並んでいるから、一般人には高尚すぎる文章だ。近頃は論文誌を見ないから、雑誌ではどうなっているか知らないが、教養書の範囲では「である、だ」から「です、ます」記述が多くなった。講義調から講演調あるいは会話調に変わったのだ。漢語がどんどん少なくなり、和風の表現になった。漢字のおかげで、表音文字では区切らずにはおれない単語を10字の文節程度まで繋いで書ける利点は残された。余韻と称する俳句式の、匂わせるような不明確な表現が避けられるようになった。はじめはバター臭いと嫌われた、単語間の関係を厳密に表現するやり方が次第に広まった。要するに、ヨーロッパ系言語のよいところが、吸収されて身についてきたのである。
- 私は外国雑誌に投稿したとき、論文の受け取り通知以降、その原稿に対する沙汰が何回かの往復連絡ののちに絶えてしまったことがある。返却すらしてこなかった。紛失の憂き目にあったのだ。ワープロ原稿だったので助かった。FDが残っていたから。ワープロは知的生産の技術を大巾に改良した。日本語については特にそうだという。英語ではタイプでコピーが作れたが、手書きの日本語では確実な郵便、確実な事務処理に頼らざるを得なかった。手書きでコピーを自作するなんて考えるだけでぞっとする。本書では、400字詰め原稿用紙に清書なしで原稿を書くように勧めている。清書もコピーと同じで、研究者がついつい寡作になる理由であった。ワープロでは文章の訂正など至って簡単で、清書もコピー造りも不要だ。
- 手書き時代の知的生産の技術ながら、本質をしっかり伝えてくれる本である。コンピュータ時代に入って、我々はどれほど効率よく仕事が進められるようになったか、一種の時代劇を見る思いだった。
('10/09/11)