新・御宿かわせみ
- 平岩弓枝:「新・御宿かわせみ」、文春文庫、'10を読む。第一部の「御宿かわせみ」はお気に入りの時代大河小説だった。このHPを「御宿かわせみ」で検索すると20件も出てくる。徳川時代末期の江戸の標準的な風景や情緒を、この小説と映像化された画面から推測するほどまでに影響を受けている。きっかけは村上弘明・沢口靖子主演のTVドラマ:「新・御宿かわせみ」であった。TVドラマにはこの前後に小野寺昭・真野響子主演のシリーズと中村橋之助・高島礼子主演のシリーズがある。単発ドラマでは他にもあるらしいが、私は見ていない。小説は文庫本化され全34分冊を数える。その大半を読んだ。
- 伴侶の死で終わった大河小説だったが、新たに次世代の麻太郎、花世、源太郎、千春が主役の小説として立ち上げられた。時代は明治に入る。このようなバトンタッチ法で続くなら、私の昭和−平成時代に入ったときの表題は、「新々々々・御宿あらためホテルかわせみ」ぐらいかなと勝手に想像する。私の祖父は慶応生まれで、本書の次世代組より少し若い年代だ。花世の10歳ほど下である。明治の背骨が感じられた祖父だった。生活の場は西と東で異なるが、どんな世の中だったのだろうと興味が沸く。
- 築地居留地の事件から始まる。横浜の居留地については横浜市歴史博物館(本HPに見学記あり)でいろいろ教わった。でも天子のお膝元の築地にも居留地があり、やっぱり治外法権の土地で日本の司法権が外国人には及ばず、やがて巡査と呼ばれる邏卒(らそつ)には手が出ない。でも下手人として訴えられた清国人を捕縛している。治外法権とは西洋人に対するだけのものであったか。老スミスは若い夫人の歓心を買うために宝石を次々と買い与える。夫人の不倫相手が悪で、それを貢がせ誤魔化すためにガラスの模造品を宝石箱に置かせる。破局を予想した夫人付の奉公人が我が身の将来のために財の分与を脅迫する。彼女は不倫相手に殺される。夫人と不倫相手は、小間使いの清国人少女に宝石泥棒の罪を、たまたま訪れたその兄に殺人の罪を着せようとする。ありふれた筋書きだ。登場する多くの西洋人の描写は、開国日本の先端の雰囲気を伝えるのに役立っている。築地はかわせみのある大川端町からは鉄砲州越しに見える。徳川時代には大名屋敷が並んでいた。それが取り壊され更地になったと思うと、「珍妙」な西洋建築が次々に現れる。町屋の人々の驚きが冒頭に出ている。さもありなんと納得する。次世代の大河小説の始まりを築地の事件に持ってきたのは、さすがに手慣れた物書きのする技だと感心する。
- 蝶丸屋の主人が逝ってから事件が起こった。嗣子が毒死した。嗣子は姉妹2人だが、妹に甥を婿に取る条件で家を継ぐように遺言されていた。姉が、すでに死去している家付き内儀の不義の子で、こともあろうに問題の甥が恋人、妹が妾の子で、主人が引き取って内で育てたという複雑な家庭事情にあった。捕物帖にはよく出てきそうな筋立てになっている。だが特徴は毒物を巡る推理である。麻太郎はイギリス留学帰りの医師である。彼はアトロピンと推測する。私にはお馴染みの薬だ。眼底検査の時に瞳孔拡大のために点滴され、3−4時間も眼が開いたままとなり、異常に明るい世界を経験させられた。朝鮮朝顔とかハシリドコロの根や葉に含まれるとある。朝鮮朝顔と聞けば華岡青洲の世界初の乳癌外科手術に用いられたことを思い出す。朝顔はヒルガオ科だが朝鮮朝顔はナス科だ。ハシリドコロも同じくナス科。ちょっと気になって身近に見かけるナス科植物を当たってみた。ワルナスビ、フユサンゴ、イヌホオズキ、キダチイヌホオズキなど。一般にナス科植物には毒性注意とある。だがナスとトマトは食用だ。野生の時はきっと毒性があったのだろうと思うと、食用になるまで飼い慣らした人間の偉大さがよく分かる。御維新後の変化がアトロピンに象徴されている。
- 邪宗の教祖に千春が目を付けられる。邪宗は桜十字の紋章を用いて、旧大名屋敷を占拠し、信者をアヘンで繋いでいる。北原白秋は大正から昭和の歌人だが、その「邪宗門秘曲」には「末世の邪宗、切支丹でうすの魔法」と謳ってある。キリスト教布教が認められたとはいえ、根強く民衆の間では邪宗視され続けていたのだろう。桜十字は隠れキリシタンを想像させるから、なかなか見事な小道具である。ピストルが新時代を告げる。最初の「築地居留地の事件」でも使われ、この「桜十字の紋章」でも犯人側に使われた。対する源太郎の武器は鉄球付の捕り縄で、八丁堀以来の伝統に新工夫が施されている。新暦採用による民衆の戸惑いが節分と正月の逆転で表されている。旧暦は太陰太陽暦であった。節分は太陽暦基準で、冬至と春分の中間点であるから新暦でも変わらない。今年は2/4だった。旧正月は今年なら1/22で、同じ順序だが、どうも明治初期では逆転していたらしい。何しろ閏月が入る太陰暦だから、立春を中心に±15日ほど正月がぶれる。節分は立春の前日だ。
- 第一部:「御宿かわせみ」では医者とか薬種問屋は脇役だった。剣の達人・東吾が主役であった。第二部では医業が主役を演じる場合が多い。次世代の男子3名の内2名までが医者だからでもある。「花世の縁談」はそれに居留地の西洋人医師と基本は漢方医ながら西洋医学の勉強に熱心な医者が絡む。問題は漢方医が処方した洋式の喘息薬(砒素)で、分量を間違えたことで始まった。しかも患者が劇薬と知らずに重ね飲みして重体に陥る。医業習慣の相違が悲劇の引き金になっている。幕末頃はかかりつけ医は滅多なことでは変更されることはなく、医者は患者宅を何が無くても得意先回りのように定期的に訪ね歩くのが習わしであった。一旦治療に成功した西洋人医師は、その後訪れることがなかったために、不親切と判断されたのである。他にも劇薬が出てくる。ジギタリスは心臓薬。クリスマスローズも同じく心臓薬だとは知らなかった。どちらも美しい私のお気に入りの草花だ。まさに美しい花には毒(棘)があるだ。
- 「江利香という女」は没落した武士家族の悲劇である。社会変動で人の浮き沈みは激しかった。八丁堀元同心の奥方が、元旗本などの手放す古美術品を種に骨董屋をやっている。西洋人とか新政府の要人、新しく頭角を現した商人たちがお得意だ。実家の札差が成り立たなくなったのを見て、古美術商に転身させた。日本画に新風が吹き始めた。それが世に受け入れられている。作者は江利香に絡む元秋田藩お抱え絵師と言うことになっている。史実としてそんな話があったかな?
- 大名屋敷から人が去り、旗本御家人とも禄を召し上げられた上、家屋敷を返上させられたから、江戸の武家居住区は空っぽになり、明治政府は殖産と称して阿呆なことに桑畑茶畑に開墾したという歴史事実は知っている。だがそれと平行して牧畜が行われ、牧場が日本橋界隈に3ヶ所、神田付近に4ヶ所、京橋あたりには8ヶ所も出来ていて、今日では想像も付かぬ田園地帯になっていたという。天子さまが旧千代田城に入城されたのはいいが、女官の火の不始末とかで火事で焼け出され、紀州55万石の上屋敷に仮御所を営まれていたことも初めて知った。最後の「天が泣く」に載っている。天が泣くは次世代の若者の犯人捜しである。彼らには親兄弟を維新のどさくさに惨殺されたものがいる。敵討ちという思想は新時代にも根強く心の底に残っている。直接犯人を手にかける寸前まで進んだ。
- 西洋文明の流入で価値観の動揺が起こり、人々は右往左往させられたであろう。どっこい生きているといった庶民の暮らしぶりを、挿入された諸々のエピソードが伝えきっているとはまだ言えないと感じた。
('10/08/22)