ストラスブールの歴史

内田日出海:「物語 ストラスブールの歴史〜国家の辺境、ヨーロッパの中核〜」、中公新書、'09を読む。ストラスブールという地名は、塩野七生:「ローマ人の物語」ではじめて認識した。ローマ帝国の対ゲルマン辺境の軍事拠点としてであった。ハドリアヌス帝時代の記述を見ると、ライン河沿いの4個軍団の内の1つが常駐する要塞都市だ。ゲルマニア防壁は遙か東方の、ボンからレーゲンスブルグを結ぶ線にまで張り出していた。近代ではドイツとフランスが領有権を争ってきた土地として有名だ。デジタルTVが旅番組でこの街を、「実物よりも美しく」、芸術的アングルで映しだしたことがあった。石造りの街は歴史を目に見える形で後世に伝える。旅してみたいと思っている街の一つである。
1ローマ軍団は正規兵6千、補助兵6千計1.2万から成る。公用語はラテン語だが補助兵団の軍隊の外で使う言葉は現地語だろう。その頃の町の人口は3万を数えた。町にはほかに1000人ほどの原住民のガリア族がいる。軍団以外は主にローマ帝国圏から来た民間人と云えるだろう。商人や軍事物資の手工業者などが集落を作ったことであろう。だからハドリアヌス帝の頃はロマンス語圏の町だった。(ハドリアヌス帝は本書には出てこない。本書のデータと「ローマ人の物語」を結びつけて書いている。)今はフランス国アルザス地域圏(州)に入る。フランス語はロマンス語の一派だから、この地方もその種の方言を使うのかと思ったら大違いで、アルザス語はゲルマン語の一派だそうだ。
彼らはもともとはエルベ河地方にいた民族で、大移動ののち住み着き、それ以降もマジョリティの立場を確保してきた。古代ロマンス語族は、町をフン族が破壊し尽くしたときに途絶えたらしい。町の名がガリア系のアルゲントラートゥム(水の要塞)からシュトラスブルグに変わったのはその頃からである。シュトラスブルグ(Strassburg)を直訳すれば、通りの城郭だ。通りとは旧ローマ幹線道路を指すのだろう。水運もあるが、陸運も重要な時代になったのだろう。フランス名はbourgには大きな村という意味があるが、Strasにふさわしい特別の意味が無く、ドイツ名の音をフランス式に書いただけと言うことらしい。中世のフランク王国の軍事に関わる公文書が古ドイツ語と古フランス語の両方で書かれていると言うから、長い共存の末の選択なのだろう。
今はDNAから民族のルーツを探る手法が活発に応用されている。だがそれまでは言葉が手段だった。でも言葉には誤解が付きもの。だいたいフランス語からしてフランク語から来たと思うではないか。ところがフランク語はゲルマン語の一派だ。もう死語なのだろう。アルザス語の、そのまたある地方方言にフランク語の影響が見られるとある。今NHK-TVで「蒼穹の昴」をやっている。西太后一代記のようだ。清朝は満州族の王朝であった。だが、満(州)語は死語になりつつあると聞いている。少数民族とはいえ600万を数えるのにと思うと不思議だ。アルザス語はせいぜい100万人ぐらいの言葉なのに、今も活性を保つというのとえらい違いだ。
ライン河はドイツ側の山地・黒い森とフランス側の山地・ヴォージュ山脈に挟まれた盆地の中央を流れる。ストラスブールは大きな支流の集まる地点であり、ライン河がこれより上流では流れが急になる地勢上、ローマが進出する以前から農産物などの集積する水運の中心として賑わっていた。地味豊かな盆地は世界的なワイン生産地を育て、フランス内の1人当たりGDP順位は第2位だという。世界遺産となった旧市街を持つ観光都市であることも、その順位に影響しているだろう。でも現在の都市部人口27万強は近代産業の浸透が遅れたことを意味する。
ストラスブール近辺は、早くから関税や通行税などの公的な税を免じられていた。これは神聖ローマ帝国時代に入っても維持される。この商業上の重要な特権が町の興隆に寄与したのは当然である。東西中央の3フランク王国のいわば力の緩衝地帯であり、住人がエルベ起源の別のドイツ民族と言うことが特権付与に寄与したのであろう。ヴェニスでは教会の世俗力は限定的であったが、それはむしろ例外的で、ヨーロッパでの中世におけるカトリック教会の権限は国権を凌ぐ感さえあり、司教領は地方領主を圧する広大なものであった。ストラスブールもその例に入る。司教が原始信仰の住民を改宗させ、住民の心に取り入るようになると、国家権力はその力を利用したくなる。住民も世俗勢力よりも信仰の柱に縋る方が安心だということか。まあ持ちつ持たれつだったのだ。かくてストラスブールは司教都市となった。10世紀後期に司教は皇帝勅許により、全面的、絶対的支配権を握る。司教領は1万haに及んだ。江戸期の寺社領よりは1-2桁大きい。都市のサイズが100haのオーダーだからその広大さがわかる。日本では一向一揆の成功したごく短い期間での石川福井地方の都市に相当するのだろう。
支配権はやがて司教の手から都市門閥に移る。都市門閥とは貴族、上層富裕市民に、元は司祭の家臣団を作っていた実務官僚などを含む実力集団である。5千人規模の戦闘が両者の間で戦われ、司教側のプロ軍団に市民軍が勝ち、その傾向は決定的となった。これは13世紀半ばの話である。市民軍は15世紀半ばでも同じ規模であった。そのうちの数百は熟達したプロの傭兵である。平時の軍事教練、射撃訓練、夜間の巡邏による門・市壁の監視、さらには消防組織としての機能まで引き受けた。ハドリアヌス帝の頃の市民3万は、ローマ式の統計つまり市民権所有者層のことで、女子供や原住民は含まれていないと思う。でも本書の15世紀の統計25千人は、女子供から徒弟までを含めた全人口を指すものらしい。徴兵可能の男子の6割以上が常備軍であった勘定だ。オランダの17世紀の画家レンブラントの名作「夜警」の風景を、市民の意志で何百年にわたって続けていたのがヨーロッパの都市である。我々は何か困難にぶつかるとお上の責任にしがちだが、ヨーロッパ人に息づく自助努力の精神が、我々にない歴史の産物であることを思い知らされる。
都市門閥内部の抗争で、実質の支配権層は有力市民側に移る。さらに都市門閥対一般市民という構図の武装蜂起が起こる。一般市民の主力は手工業者の同職組合ギルトであった。14世紀の中頃であった。皇帝はストラスブールを自由都市と呼んだ。帝国議会に代表団を送り、帝室裁判所に民事非控訴の特権を持ち、恒常的な税金を免除される帝国内ながら独立性の高い共和国となった。同職組合が参事人、参審員を送り込んで、政治行政を支配する。組合は親方たちが強い権力を発揮する自治組織になっている。このような都市機構は次第に同職組合を閉鎖的なものにしていった。社会の固定化と貧富格差の増大が始まる。秩序維持のための保守的制度が都市を息苦しくさせる。フランス革命まで、この政治体制はもう動かなくなった。
16世紀初期に宗教改革が始まる。ストラスブールはルター派の温床になった。市参事会は福音主義に舵を切った。聖職者は市民権を持つことを義務づけられ、財産は市当局が管理するところとなった。修道施設は救貧施設に組み入れられた。だが概して穏健路線が貫かれる。カトリックとは40年ほどして一応和解する。アルザスはカトリックとプロテスタントがモザイク状に入り交じった半独立小国家群で構成されていた。領主のいない飛び領地もかなりあったという。それを強大なフランスと神聖ローマ帝国がそれを包み込んでいる。半独立と書いたのは名目上の宗主は神聖ローマ帝国皇帝だという意味だ。1648年のフランス合併前のアルザスの所領分布図が添付されている。司教領程度の領地が全域を細分している。まるで江戸時代のわが千葉県のようである。ストラスブール周辺の司教領が先述の通り1万haであった。それを日本の江戸時代に換算すると、司教は1-2万石ほどの小大名に過ぎない。30年戦争に対して各小国は、それぞれの利益のために離合集散を繰り返したが、結局はより近代的でより中央集権的なフランス王国に飲み込まれるのは時の流れであった。

('10/03/27)