房総発掘ものがたり

千葉の青葉の森公園に行き、県立中央博物館の企画展「房総発掘ものがたり」(平成21年度出土遺物巡回展)を見た。正月上旬と月末の2回見た。TVが関東のロウバイの開花を伝えたのがきっかけになった。公園にはロウバイが西洋庭園を過ぎて緑の相談所寄りの古墳までの位置に数本ある。上旬すでに満開に近い木もあったが、2分咲きぐらいもあって、まあ平均して6分咲きと言ったところであった。月末には満開を過ぎた木とようやく満開に達した木が芳香を放っていた。公園の中の梅園では、紅梅が満開を迎えようとしていた。この梅園の白梅は開花が遅れているが、県立美術館の白梅は満開で、花見客がいないからだろう、数羽のメジロが来て花をついばんでいた。シジュウカラもいた。ウメにシジュウカラは始めて見た。比較して、ロウバイの方が香りが強いと知った。ロウバイはバラ科ロウバイ属で、ウメはバラ科サクラ属という。ちょっと種類が違うのだ。
展示は魏志倭人伝のAD240年の記事から始まる。倭国と魏の使者交換を記述している。だから倭国にも文字を識る秘書官がいたはずだ。あとで売店に「魏志倭人伝の考古学」(歴博ブックレット、'97)という冊子を見つけ購入した。当時の歴博館長・佐原真氏の編著作である。本書と同じ題名の本格的著作が企画され、執筆が始まったが未完のまま著者は逝去された。歴博の研究者が故人の意志を継いで発刊に漕ぎ着けたと聞いている。丁度正月早々の新聞に、奈良の大王古墳から魏志倭人伝記載の卑弥呼に贈られた時と同じ年度の銅鏡破片が出土し、耶馬台国論争が大和政権説有力になったと報じられていたことも刺激になって、買う気になった。魏志倭人伝が、有史前の日本を語るのに欠くべからざる史料であることを、考古学的に論証しようとしていた。
竪穴式住居跡に茶碗様土器9碗と大型盛り皿様土器1皿の写真があった。碗は土間にきれいに伏せて並べられている。元は木のお盆に載っていた。その横に竈。煙突を屋根の外に出して煙が室内に篭もらぬようにしたという。留守中に家が炎上したために、生活のある一瞬が今日に伝わった。平均して1家族は5名ほどという。1名当たり2碗だ。養老5年(AD721年)の下総国のある郷の戸籍が示されてあった。74歳の戸主、53歳の妻、21歳の嫡男以下4名の子どもになっている。正丁は戸主と長男。ちょっと年齢が不合理と思うが、ともかくこの程度の家族だったようだ。年代が変わっても古代には通してこんな家族数だったのだろう。最近では縄文時代の住居は青森県の三内丸山遺跡で、弥生時代のそれは神奈川の大塚遺跡公園で見た(本HPの「横浜市歴史博物館」)。掘っ立て小屋形式である点はあまり変わらない。8世紀に入っても、おそらく民家の構造にはあまり変化がなかったのではないか。
遺物に墨書された文字を追う。国内最古は三重の2世紀で、千葉では3世紀だ。北陸、三重、関東という文字伝搬路があったという。このHPの「長岡京遷都」に、歴博の企画展:「長岡京遷都−桓武と激動の時代−」の要旨がある。それに秋田城址から水洗便所跡が見つかったが、外国使節団を接待した客間の遺構ではないかと言う解説があったと記されている。糞の遺物に鮭の回虫が見当たらないという傑作な証拠からの推論だった。ついでだから書いておくが、薄い木の篦が便所紙の代わりで、再利用のために削り削りして薄くなり、もう使えなくなった木簡の最後の利用法だったという。だから木簡は便所から発掘されることが多いとは、月末の解説員の話であった。書記の3道具は筆と硯とナイフであった。津軽には十三(とさ)湊と言う中世に栄えた港町があったが、津波で壊滅した(本HPの「津軽」)。そこでも交易の相手に北方の外国が出ていたように記憶する。NHKが渤海関連の発掘が旧満州やシベリアで進んでいることを報道したことがあった。日本への貿易拠点も解明されつつある。渤海使のルートは渤海が建国する以前から開けていたと推測するのは奇異ではない。それは鎖国に入るまで続いた。起点が北陸でもおかしくないのだ。
文字は3-4世紀から大和政権確立とともに支配層に浸透し、仏教の浸透と行政官僚の実務道具として一般にまで広がってゆく。房総最古の竜角寺は房総風土記の丘に近い場所にある。薬師如来座像は奈良時代の古仏で重文だ。今は田舎寺だが、7世紀に遡る伽藍跡は堂々の遺跡だ。関東屈指の古寺という。窯跡から出土の竜角寺納入瓦があり、それに周辺地名を思わせる文字が入っている。その頃には工人にまで文字が浸透していた。死から逃れるために鬼(国玉神とか偉容な相貌の絵)にお膳をお供えする意味の文字が残っている。罪滅ぼしという思想も含まれ、生死感を垣間見ることが出来る。まだ中央政権の祭る神々は民衆の信仰対象ではなかったらしい。村の集落には普段は住職不在の小さなお堂があり、そこには僧侶が巡回説教に訪れるというサービスがあったことが、土器の文字から知れるという。産土神と仏教の関係は微妙だったのだろう。平安時代に入ると貴族階級から仏教の比重が増すが、まだまだ仏教は民心の底までは入り込めていなかったのだろう。
続日本紀の実物が展示されていた。国学者・平田篤胤所蔵であった本だ。印刷本である。彼が書き入れた朱筆の註が見える。飛鳥時代の文武天皇から平安京初代の桓武天皇までの95年を埋める日本書紀の次の正史である。我が国がもっとも高揚していた時代を扱う史書だ。律令国家体制が整いだした頃の東北経営のための軍事行動や、移住入植の大まかな情報が含まれている。イスラエルの占領地入植とさして変わらぬ行動で、いつの時代も軍事力が政治の基本であると、ため息が出た。将軍と上級士官は中央政権からだったろうが、下級士官と下士官、兵は関東からだったのであろう。古代ローマの成熟期以降の軍組織とよく似ている。関東からは屯田兵的にであろう、集落ごとの移住が行われたと思う。彼らは東北に出身地を地名に残した。山形だったか福島だったかの県立博物館でも同様の解説資料を見た記憶がある。
地味な展示だが、方向性のあるいい企画展であった。

('10/02/01)