山形、郡山、会津若松、越後湯沢T

以下は11月の大人の休日パスによる3日間の旅行記である。いつの頃からか「大人の休日パス」に嵌ってしまい、その期間が来るのを楽しみにするようになった。JR東のこの企画は年寄りの心身の健康維持に大いに貢献している。家庭の平和にも寄与していることであろう。初日、 9:27千葉→9:52東京 成田エクスプレス6号、10:08東京→13:00山形 つばさ111号、17:05山形→18:31郡山 つばさ126号; 第2日、 18:34郡山→19:56東京 MAXやまびこ126号;第3日、9:44 東京→11:17越後湯沢 たにがわ405号、14:02越後湯沢→15:20東京 MAXとき326号が今回使った指定券である。3ヶ日の間、ずっと暑くもなし寒くもなし、晴れまたは曇りの旅行日和に恵まれた。
さて第1日。東北の山々の落葉樹はあるいは黄葉あるいは紅葉し、常緑樹の緑の中に映えて美しかった。カキの赤い実が目立つ。民家の庭ばかりではなく、山中にも何本も見えた。山形駅西口は再開発域のようだ。何か秋田駅西口を思い出させる。整然と大型のビルディングが並んでいる。多くはホテルのようだ。私はまだ新幹線などなかった時代に山形県、福島県を歩いている。その頃の印象とは全く違った印象の駅前であった。霞城セントラルというひときわ背の高い建物の1Fに観光案内センターがあり、町の地図を仕入れることが出来た。広場に亭々とそびえる植樹林があり、木陰のベンチに憩う人が見えた。もう黄葉していた。モミ、カヤ、イチイなどに似た葉を付けている。でもそれらは常緑樹だ。道行く人に聞いてみたが、木の名は分からなかった。このHPに「生きている化石」という題で語っているが、私は昔高尾山の麓の自然科学博物館の前庭でメタセコイアの大木を2-3本見たことがある。天高くまっすぐに伸びていた。それに似ていた。戻ってから図鑑を見ると秋に落葉するとあった。当たっていたようでうれしかった。
二の丸南大手門跡から霞城に入る。最上氏の最盛期義光の時代には、公称50万石強実力100万石という領地だったそうだ。幅広い堀には鴨の群れが泳いでいた。リール釣り禁止の立て札がある。ほかの釣り方だと許されるらしい。魚の持ち出し禁止の立て札が並んでいる。釣っても魚は堀に返せという意味らしい。堀の二の丸側の要所は石垣で構築されている。広さといい堅固さといい堂々たる遺跡である。敷地の中には鉄筋コンクリートの公共建造物が並ぶ。霞城公園整備計画のイメージ図が案内看板の一角に描かれていた。体育館や博物館、野球場などお城とは元来縁のなかった不似合いの設備はおいおいに撤去して、中世か近世の時代の姿に復旧したいようだ。その一環であろう、本丸の復元工事が進行中である。水のない堀に木橋が架かっており、渡ると将来は復元される一文字門あたりまでは進むことが出来る。
重文・旧済生舘本館が三の丸の旧地から二の丸の中へ移転してあった。今は「山形市郷土館」である。明治11年建造の玄関部3層円筒状の三層楼、実務部円形配置の廻廊室という木造の擬洋風建築である。病院と医学校を兼ねていた。ドイツから教頭として招かれた医師の胸像が門前にある。展示品の中に病院の辞令があった。医師が月給20円、看護師を含む補助医務者が日給が多くて15銭。現代の給与水準と比較するならば、貨幣価値は10万倍。普通のたとえば米価比較でなら1万倍といわれているから、相対的に人件費が安かったと云えるのだろう。
医業報酬規定は面白かった。診察料に宅診と往診があり、前者に50銭以上5円以下、市内人に対する後者は1円以上といった記載がある。宅診とは病院の外来のことだ。ちょっとお医者に見てもらっただけで、現在の所得感覚で最低5万円の謝礼をせねばならぬ。治療や投薬があればすぐ10万円を超す。保険などない時代だ。明治後期の島崎藤村:「千曲川のスケッチ」に、寒村では、白米の飯を食わせてもらえるのは、死期が迫ったときだけという表現があったが、この医療費では、一般平民が医者にかかるときは、もう重篤で、先がなくなってからであったろうと思う。
玄関部の「三層楼」に登る。義光時代の市街図を現代風に描き直した地図がある。三の丸内を含め整然と碁盤の目状に区画された京都風の都市である。山形では私なりの観光ルートを4時間ほど歩くが、その範囲では道路はほとんどが直角交差型で、新計画道路が旧道路と斜めに行き交うような無様な姿はどこにもなかった。基礎の都市計画の重要性を語っている。道路は拡張され歩道の整備もよかった。ほとんど交通渋滞にはお目にかからず、道路行政の先行が感じ取れる。明治14年の済生舘前の通りの写真があった。多分お役所群であろう、左右に擬洋館群が正面の済生間にまで続いている。開拓時代のアメリカ西部の都市よりもずっと整然とした姿であった。
隣の県立博物館に移動する。実力100万石の最上氏が3代で改易になってから、時代とともに山形藩は小型化していった。藩侯家が交代するたびに領地が減少していったのである。町も地方の中小都市化した。私は東京一極化を憂えるものだが、徳川が100万石大名をあちこちに残していたなら、ドイツの各州都のように、地方文化を担う中心が、地方分権など唱える必要もないほどに、存在感を示すであろうにと思ったりする。義光の娘・駒姫の悲劇は知っていた。義光の政治的意図もあったのであろう、15歳で秀次の側女に上げられたばかりに、秀次に連座して賀茂の河原で他の愛妾とともに首を刎ねられた。辞世の句が哀れであった。「つミ(罪)をきるみた(弥陀)のつるき(剣)にかかる身のなにかいつつのさわり(五常の障り、五常とは儒教の教えで、仁・義・礼・智・信の五つ。)あるへき」。おそらく大泣きして後悔の臍を噛んだ義光は、愛姫を移設した専称寺に弔った。東北有数の大寺だそうだ。
義光の騎馬像を過ぎ二の丸東大手門に行く。門の付属建造物の再建が成って内部を公開していた。壁には普通どの城にも見られる鉄砲狭間弓狭間のような細工は省略してあったが、石の落とし窓が通路上部に位置する床面に数多く開けられていた。堀を渡るとすぐ平行に走っているJR鉄路を跨ぐ橋がある。狭軌の左沢線と標準軌の奥羽本線・山形新幹線が並んでいる。線路幅が目で比較できる珍しい場所である。山形美術館と最上義光歴史館の前を歩いて、市立病院済生館(二の丸で見た旧済生館本館のあった位置か)に突き当たり、左に折れて、やたら漬本舗、テレビ局とか諸官庁の建造物を見ながら重文・文翔館(山形県郷土館)に行く。
昔の県庁、県議会議事堂である。30数年前まで現役であった。大正期の、旧県庁は正面が石材で、旧議事堂は石材と煉瓦で作られた堂々たる建造物である。相応しい広さの公園の中にデンと収まっている。門とか柵も昔のままなのだろうか。旧県庁から入る。建物の中の各部屋が立派に復元してあった。正庁、内務部長室、警察部長室、知事室、貴賓室、会計課・銀行出納係など。部屋の大きさや調度品から当時の部長は偉かったのだと感じる。中庭から眺めた建物は全煉瓦造りであった。節約してあるのだ。旧議事堂の便所の説明に、当時としては珍しい水洗式だったとある。ホールは音楽の催しに使用中で中には入れなかった。
文翔館前の通りを南に歩く。繁華街であるらしい。教えられたとおりにホテル・キャッスルの十字路を右に折れ山形駅を目指す。その十字路あたりに三の丸土塁跡があった。京都のお土居風な雰囲気の盛り土である。義光の頃にはその内側から城内であったろうが、禄高の落ちた後世では城内とは意識されていなかったのではないか。そう思わせるほどに三の丸は広い。文翔館から駅まで半時間以上かかった。東口は西口よりもさらに垢抜けたデザインの立派な駅舎であった。

('09/11/12)