横浜市歴史博物館
- 年齢とともに長距離のドライブや歩きが億劫になり、博物館とか美術館が行楽の目玉になりつつある。先週、土曜日に横浜市歴史博物館を、次の日曜日に須賀市立自然・人文博物館と記念館「三笠」を見学に出かけた。大人の休日ホリデーパスが今月9月で終わるので、最後の土日を横浜行きに当てたのである。出発の電車は両日とも9:35千葉発の逗子行き快速で、7時過ぎに戻っている。千葉駅の自動販売機でパスを買う。1日がわずか1000円である。千葉駅から横浜や須賀の最初の目的地までは、だいたい2時間かかる。
- 第1日目、横浜で横浜線に乗り換え新横浜まで行き、そこから市営地下鉄ブルーラインによりセンター北で下車。博物館には5分ぐらいで到着した。当てが外れたのは中にレストランがないことだった。飲み物の自動販売機があるだけ。常設展400円企画展200円を払う。老人は特別待遇だが、県外の私には適用されない。幸いチケットを無くさなければ、その日の出入りは自由なので、食事は外で取ることになった。来る道で何となく頭に残っていたファーストフード店を探して歩く。ところがどこも行列が出来ている。仕方なく駅のおにぎり屋で2個ほど買い入れ、道端のベンチで食う羽目になった。不案内の場所ではたいていこんなもので、落ち着いて周りを見渡すと買い物客が出入りする大型のビルが近くにあったのだった。帰途は駅の表側から入ったが、博物館側とは違って賑やかであった。
- まず企画展「収蔵資料展 都筑・青葉の生活と歴史」から見る。都筑・青葉はこの博物館の所在する地方で、海岸から見て新横浜駅からさらに山側へ引っ込んだ丘陵地帯である。富士信仰の山田富士という小富士が土地造成前には残っていたらしい。谷津を作る丘の一つを人工的に盛り土で富士にしたのだろう。駅を降りたって感じたのは、現在の風景は近代的な都市計画の下に建設されていると言うことだった。江戸時代は幕府の直轄地、旗本の領地あるいは寺社領などが入り組んだ複雑な支配体制だったようだ。純農村地帯である。中世以前と成ると極端に文字の資料は少なくなるようだ。この地域には大型の支配階級はいなかった。横浜開港で生糸が輸出産品として脚光を浴びると、養蚕が盛んになった。それも昭和恐慌以来は減少の一途となり市域からやがて姿を消す。常設展や翌日の須賀の博物館で見たものと重複する展示がかなり多い。この200円は意味がなかった。
- 縄文人の住居跡と弥生人のそれとは場所が違っている。後者は自然からの採取よりも農耕によって生活の糧を得る方に重点がった。初期には人口まばらだったのに中期以降に急増するという。後で見る博物館隣の大塚遺跡がそうであるように、弥生中期に集落は環濠に囲まれて、外敵の侵入や戦争に対する防衛体制を持っている。この集落の人口は住居跡からほぼ100人と計算されていた。南北朝・戦国期の環濠集落の名残は奈良県の山の辺の道にある。見たのは30年も昔だった。吉野ヶ里遺跡にも環濠があった。たいそう規模の大きな遺跡だった。訪れたのは10数年昔である。重要地域には柵が2重3重にあり、柵の内外に環濠がある。出入り口も数多かった。建設の時期はここと同じ弥生中期だったと思う。大塚の集落は柵は1重環濠は内側だけ、見張り櫓はない、身分の分化はまだ強くはない、司祭施設があったかどうか不明、倉庫も小さいと言ったところから、発達初期段階であると見られる。古墳時代の埴輪に盾を構えた武人の像がある。蔵が建つほどに余裕が出来ると勢力拡大の戦いに血道を上げる。集権度の差は集会所の大きさからも分かる。もう吉野ヶ里の記憶はないが、青森県の三内丸山遺跡は縄文時代ながら、大塚遺跡公園のそれに比べれば、復元家屋はずいぶんと大きかった。墳墓も支配規模の目安である。同じ前方後円墳ながら仁徳天皇御陵に比べてその小さなこと。しかも前方後円墳はこの地域の頂点の支配者の墓だ。墓の小さいのと数が多いのは集権が出来ていないことを示す。集落の長程度は横穴墓の葬られた。
- 次の日に須賀の博物館を見ている。両博物館の取り扱う地域は土地の住民でない限りほとんど同一地域である。歴史資料の少ない江戸時代以前に関しては全く同じ地域と考えざるを得ない。こうなると江戸期以前については町ごと市ごとに歴史博物館を設けるなど意味のないことのように思う。まとめて県立の大型の完全な歴博を作るべきであった。どこへ行っても貝塚の貝から始まり、土器や埴輪の破片なのである。それから古墳、国府・郡衙(都築郡衙が発掘されている。)を襲い中央に反乱の兵を挙げた平将門の解説、地方を治めた武将の名が違うだけの武家社会の成立。見覚えのある戦争蒔絵。
- 鎌倉時代の僧侶が書き残した物価表が出ている。豆腐7丁24文、こんにゃく10枚30文。これだと1文=40円ぐらいだ。このHPに森鴎外の「山椒大夫」に関する記事がある。そこでは平安末期の貨幣価値として1貫文=1,000文=20,000-100,000円と推測した。戦国時代の後北条家家臣大曽根飛騨守の知行は27貫200文=110万円。江戸時代和歌山藩勤番の下級武士・酒井伴四郎(本HP「勤番侍・酒井伴四郎」)の方が高給取りである。「山椒大夫」時代の生活水準は江戸時代の1/10と推定したが、間違っているようではなかった。軍役の時は本人は足軽3人を引き連れて参陣する。復元された彼の軍装は、飾り甲を着けた堂々の騎馬姿だから侍大将ぐらいで、軍団の小部隊を指揮する立場なのだろう。小部隊には足軽を連れた武士が配下に就く。だが、飛騨守の知行から見れば、その武士は彼に召し抱えられているのではなく、小禄ながら主家から知行を直接もらっているのだろう。後北条の軍隊編成は、下克上に対する歯止めを意識している。これは私の勝手な推測である。
- 江戸時代の神奈川宿の茶屋「桜屋」の模型は宿場の繁栄を示す。茅葺きながら大きな二階建ての建物だ。街道筋では本陣脇本陣跡を所々で見学した。息抜きの場所としての茶屋はどこにでもあったのだろうが、跡をとどめてはいないし、町全体の模型はあっても茶屋と分かる展示にはお目にかかった記憶がない。
- その日14:00からLast Saturday Programとして学芸員による常設展の解説が行われた。40分。近現代のコーナーが対象である。横浜と言えばなんと言っても開港以降が歴史であるからラッキーだった。解説の学芸員は苅田氏。その前に13:00からの歴史劇場で15分ほどの映像解説を見る。さしたる印象はなかった。神奈川県の昔からの湊は神奈川湊と六浦湊である。神奈川湊は東海道本線東神奈川駅と京急本線神奈川駅の中間ぐらいの位置で、横に神奈川宿があった。幕末人口6千だったという。六浦湊は金沢八景あたりで今は埋め立てたために内陸部になっているそうだ。横浜港は両湊の神奈川よりの人口500の寒村横浜村に、海外貿易用に新たに設けられた港で、日米修好条約上では神奈川湊である。横浜村は室町時代の文献に出てくるそうだ。長崎出島風に運河で居住地を区切り、その東に日本商人、西に外国商人が住んだという。
- その寒村が明治30年にもなると人口12万に膨れあがる。都築・青葉地区はその人口を支える食料等の資材供給基地となり、一方では生糸貿易の発展に伴い養蚕農業の発展を見る。横浜市は今人口367万で月々千人近い増加がある。大阪市を抜いて日本第2の大都会となったのはいつであったか。大阪は江戸期にすでに何十万かだったから横浜がいかに急激な増加であったかが理解できる。下水道普及率を例にとって説明があったと思うが、都市整備が旧市街では遅れたと言うことだった。ジオラマは、明治の頃の都築・青葉地区の農家のある日を見せる。都会まで大八車で農作物を運び、戻りには肥やし桶を満たして曳いて帰る。肥やしとは人糞のことだ。関東ロームの上に富士山の火山灰が厚く覆っている地層なので沃土ではなかった。
- 関東大震災、空襲などで市街地は全焼したから、残った写真とか絵はがきを頼りに工夫した模型展示がなされている。TVにヨーロッパ各国の都市風景をよく紹介している。石造りで地震の心配のない国はうらやましい。本物が残るから。伊勢佐木町通りの賑わいを人力車の客と車夫、子守の少女、外国人夫妻、巡査、魚の行商のぼてふり女で見せている。当時の百貨店である勧工場の商品が置かれている。人力車について聞いてみた。人力車は明治2年の日本の発明で、板バネはかなり初期から国産化していたという。
- 大塚遺跡公園は極く近くだ。丘の上である。集落外に近接して10m四方の方形周溝墓が見られる。始めて見る形式だ。集落の長の墓らしい。遺跡には復元した住居、倉庫、木橋それから木柵と内側に掘られた濠がある。あちこちで見る復元住居跡とあまり変わらない。6人家族で40-45m2ほどの床面積であった。家財道具込みだから何とも狭ぐるしい住まいだ。何度か戦火で焼き払われているらしい。木柵の高さは1.8mぐらい。当時の男子は多分1.54-5mの身長だったから、これぐらいで防護柵になるようだ。それにしても濠がなぜ内側なのか。丘の上の凸凹地形だから空濠のはずだ。
- 都築民家園の旧長沢家住宅を見る。公園近くにあったかっては名主の家だ。和風旧家の見学はあちこちで行った。関東には新潟の北方文化博物館(豪農)や長野・須坂の田中本家博物館(豪商)あるいは東北・遠野の千葉家(豪農)のような大型の歴史のある古い和館にはお目にかからない。松戸市戸定歴史館(水戸徳川家)や佐倉厚生園旧堀田邸は立派だが、明治維新後の建物だったと思う。パンフには主家と馬屋が平行なのが武蔵南部特有の形だとあった。千葉家はあの地方独特の曲り屋で馬は20頭いたと言った。この長沢家は書いてなかったがせいぜい3-4頭といった数のようだった。
('09/10/02)