世界は分けてもわからない
- 福岡伸一:「世界は分けてもわからない」、講談社現代新書、'09を読む。帯には「顕微鏡をのぞいても生命の本質は見えてこない!?」「科学者たちはなぜ見誤るのか?」などの刺激的な言辞が散りばめられている。本書を購入した第1の理由は、たぶん著者への信頼感からである。すでに同じ著者の本を2冊読んでいる。どちらも現役研究者の、現場からの人間味のあふれるレポートとして、納得できる内容だった。ライバルの成果に一喜一憂し、ブレ動く自分自身の思考法と毎日格闘する。高名な小説よりもよほど面白いと思ったことがある。それからプロローグのパルヴァの文字。そこで開かれた国際学会で著者が発表する。「ヴェネツィア共和国の一千年V」でヴェネツィアの運命を決めたジェネヴァとの最後の会戦で、ジェネヴァ同盟軍として陸路からヴェネツィアを攻め立てた国として知ったばかりであった。だからこの文字に引きつけられた。著者は発表を終えると学会からトンズラしてヴェネツィア観光に向かう。私も学会が主なのか観光が主なのか分からぬ出張を楽しんだものだ。
- 著者の発表はキノリン酸分解酵素の研究見通しに関する話であった。昔、味の素を調味によく使うヒトは頭が涼しいといわれた。脳神経回路の情報伝達物質にグルタミン酸が使われているからだ。キノリン酸は分子生物学的にはグルタミン酸と類似していて、リセプターと結合するから、神経細胞毒になる。キノリン酸は、体内合成不可能の外部からの摂取だけが頼りの必須アミノ酸:トリプトファンからビタミン:ナイアシンを合成する中間物質だ。トリプトファンは他の脳内物質の合成原料でもあり、脳のバリアーをフリーパスして入ってくる。味の素同様の発想で、他の脳内物質と言った化学物質が脳の安眠睡眠システムに関与していることから、脳健康サプリメントとして市販されているという。著者はその短絡的発想の危険性を分解酵素の研究で訴えようとした。
- 視線に対する著者の仮説には目から鱗であった。夜行性動物たとえばネコやタヌキに懐中電灯の光が当たるとキラリと異常に光る。フラッシュ撮影すると赤目が写る。網膜の裏に反射板が付いているためとは知らなかった。視線方向に向けて反射光が飛び出す。ヒトの目の感度はすばらしい。光子が数個から数十個届くと視神経は脳に受光を伝える。視線は盗み見の角度からくる。中央からではない。面白いことに解像力は中央だが、感度は周辺部の方が高い。盗み目に対する感覚は鋭いのである。解像力は視神経の太さで決まっている。0.1mmを切る程度らしい。
- 補助手段(望遠鏡に顕微鏡)を使って、パワーズ・オブ・テンを実行すると、物差しの大きさに関係なく、類似の景色が現れる。ランゲルハンス島はインシュリンで名高い島だが、400倍視野でのこの島はまるで南太平洋を遙か上空から俯瞰しているような景色だ。大構造は小構造と相似であるとは、ランダム世界に対する繰り込み群理論の公理で、私が高分子形態理論においてお世話になった数学手法である。高分子形態理論は完璧に高分子鎖がフレキシブルであると言う前提があり、構成モノマー単位の議論になった時点で実際と離れる。生命現象だって群の論理には限界がある点では同じだとは、どんな素人でも直感的に分かっている。
- 著者は学会をサボってヴェネツィアに行く。中世の名画ガルバッチョ作「コルティジャーネ(高級娼婦)」を鑑賞するためである。元々は屏風絵のような折り畳みが可能な大画面であったが、貪欲画商が切り売りしてしまった。今に伝えられた右半分相当の絵は、潟(ラグーン)に遊ぶ貴人を遠景に、貴族の館に屯する物憂げな婦人を描く。宙を漂う婦人たちの視線の先には何があったのか、左双は失われているから今となってはわからない。部分から全体は見えてこない。本書の主題だ。
- ソルビン酸は腐敗防止剤である。乳酸や酪酸の脱水素酵素の囮物質になる。腐敗菌がこの酵素を産生してもソルビン酸が食らいついて離れないから、腐敗のシーケンスは脱水素ネックとなって停まってしまう。本物であるかのように振る舞って、本来の生活活動生命活動に悪影響を及ぼす行動は、生物の世界では見慣れた現象だ。人間社会の詐称に詐欺、鳥の托卵、昆虫の擬態など。一方的なパラサイト関係の場合もあるが、腸内細菌のように共生関係にある場合もある。腸内細菌は人間の場合細胞数ではヒトの倍ほどあって、ウンチのかなりの部分がその死骸だという。ソルビン酸は人畜無害だ。進化の過程で、畜生どもは囮に作用されない代謝経路と酵素を開発し、しかも肝臓には、有毒物質の分解解毒機能を持つに至った。ソルビン酸の人体に対する影響は詳細に調べられた。しかし、共生する腸内細菌は影響を受けているはずで、ソルビン酸の長期消費が知らず知らずのうちに人体内の最近バランスを狂わせ、いつか悪影響として表に顔を出すかもしれない。
- 初期胚の万能幹細胞状態から機能別幹細胞状態を経て胎児に分化してゆく発生は誠に神秘的である。人工培養で増殖させた初期胚細胞・ES細胞は置かれた環境の「空気」を読みながら自発的に使命の分化コースを歩む。「空気」であって、最初から「地図」に位置付けられているのではないと著者は強調する。ガン細胞はES細胞と紙一重で、無限増殖性は共通ながら、後者には「空気」を読む能力がある点で天地の差を作っている。再生医学では脳死と判定された屍体から、部品臓器を切り取って患者に植え替える。移植後は「異物」と判定されて免疫機構の攻撃に苦しまねばならぬが、運がよければその攻撃も穏やかに成り、組織は仲間入りを果たす。「拒否」「受け入れ」は生体本来のKYかnot KYかの可塑性に基づくもので、医術の進歩に負うものではない。
- 子供からも臓器摘出が可能になった。脳死判断による再生医療の普及に貢献するであろうという。脳死後まだ数時間以上臓器あるいは細胞は生き続けている。私は生霊がお通夜の時間をかけてあの世にすぅっーと抜け出てゆく在来型の葬式で死にたい。遺族が故人の部品の行方をトレースすらできない今のシステムでは、献体カードを持つ気になれない。そもそも天命の臓器欠陥に他人の生きた臓器をはめ込むなど無体な話と思う。著者は脳死の逆が脳生だと書く。受精卵が活発に分裂し、胎内児として脳機能を活性化させるのは、受精後24-27週という。脳死と同じ論理を適用すれば、それまではヒトではないことになる。ヒト受精卵レベルではすでにその論理が韓国では適用されている。自己細胞によるiPS細胞からの再生医療以外は危険思想と考えるべきだ。
- 我らの脳は不確実情報からいち早く敵を認識しようとする。モザイクがかかった図形から直ちに目と顔を読み取る潜在能力もそれだという。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」で、必ずしも錯覚とばかりは言っておれない。恐竜が闊歩していた時代に、捕食から逃れるのに必死であった御祖先様からの遺伝心理であろう。だから脳が視覚で受け取った情報は必ずしも真の姿ではない。空耳から連想して空目と著者は呼ぶ。我々の脳は視覚信号を強調して、何でもかんでもパターン認識に持ち込むお節介な性質があるとも云える。その基本は脳がトーン・ジャンプを調べねばおれないという本質から来ている。オークションで2.8万ドルの値が付いたというただのトーストの話が引用されていた。ほどよく付いたトースト表面の焦げ模様がマリア様のお姿だったからと言う。大金持ちが冗談で買ったのかもし得ないが、ヒトの業を教えている。「心眼」は、普通もっと複雑な思慮に対して用いるのだが、視覚認識にも使って良さそうだと思った。
- 第8章から終章に至る本書の1/3は、分子生物学会を驚愕させた捏造事件を解説する。細胞のエネルギー代謝はアデノシン三リン酸(ATP)が主役である。ATP合成酵素と分解酵素の活性の動的バランスにより辛くも生命が維持される。酵素はリン酸化によって不活性化(スイッチ・オフ)を受ける。酵素自身はDNA-RNAコースをたどって合成されるが、生物的に瞬間の対応には酵素のオン/オフ機構が有効である。瞬間に実現するために生物はリン酸化カスケードシステムを用意した。最上位のリン酸化が引き金になって末端では多量のリン酸化酵素が生み出される。この理論はほぼ現代では証明されている。ATP分解にだけではなく、ガン細胞のリセプターが情報を受け取るRssの情報伝達機構にも同じメカニズムが働くと証明されている。しかし理論(作業仮説)の唱道者は道を踏み外した。実験結果を捏造したのであった。
- 彼らが細胞物質分割に使った手段は電気泳動法であった。電位勾配のあるポリアクリルアミドゲル層の中に、界面活性剤:ドデシル硫酸ナトリウムで覆った生体高分子を泳がせる(SDS-PAGE)。生体高分子は分子量分割されたスペクトルとなる。私は現役の頃工業高分子を分子量分割するために、ゲル・パーミエーション・クロマトグラフィー(GPC)を用いていた。この本に活写されている実験の1こま1こまがよく分かる。私の実験も困難だったが、彼らの実験の困難度は生体高分子が対象だから1ランク上だろう。私は検出には主に光散乱を用いた。彼らはぼろを出した実験では放射性同位元素の放射性を用いている。その手間さ加減もよく分かる。彼らのうち親分は教授としてその大学で生涯を勤め上げたが、実験者であったポスドクの子分は追放になり、行方知れずになった。サブプライム問題が契機となって起こった金融不景気の原因追及番組で、野放図な自由競争市場のインセンティブが囁かれる。研究社会が成果を上げるために激烈な自由競争にあることは間違いない。子分は、親分の贔屓を、いつまでも引き留めておきたかったのだと思うと、切ない話である。
('09/08/06)