できそこないの男たち
- 福岡伸一:「できそこないの男たち」、光文社新書、'08を読む。著者はその「生物と無生物のあいだ」(本HPに書評あり)がベストセラーになり、一躍有名人となった青山学院大教授である。受精の際、精子は父方の遺伝情報を運んでくるだけだが、卵子は卵割から着床に至る発生初期に必要とする栄養その他の準備一切を受け持っている。男ははじめから影が薄い。ミツバチやアリマキでは未受精卵による単為生殖が見られる。ヒト男性の精子の生産力とか1個1個の活動能力が低下しているという報告も環境汚染に引っかけてテレビで報道されている。iPS細胞の説明など見ていると、近い将来に卵子だけでヒトの世界が構築出来るような悪い予感さえある。
- プロローグに著者のポスドク時代の奮闘ぶりが紹介されている。研究者とは、門外漢からは、好きなことを唯我独尊的に公費でやれる結構な身分と思われ勝ちだが、現実には、少なくとも無名時代は、いつ生命を失うとも分からぬ前線の兵士のようなものである。著者はコネやツテに頼らず、自力で京大大学院博士コース後のポスドクの口を探した。私は退官後の再就職先をいささかの自惚れを持って自力で探したことがあったが、結果は惨憺たるものだった。若き日の無謀に近い行動が今日の著者を作っている。NYのスーパーのレジにすら小馬鹿にされるが、国際会議でスイスから来た権威の基調講演で、会議の公用語は英語ではなく「poor English」だという冗談を聞き救われる話など、万年英語苦手であった我が身には痛いほどよく分かる。
- 著者は難解な性生物学をノンフィクションの歴史物語として説明し始める。精子卵子は顕微鏡サイズだ。まずはこの性細胞を観なければならぬ。精子は呉服屋上がりの下級市職員が趣味で作った顕微鏡によって初めて生きた姿で観察された。非球形単レンズで300倍という高倍率顕微鏡を作ったという。中心部分以外は歪んだ像にしか見えないだろうから、彼は心眼を開いて観察した。精子の染色体を初めて眺めたのは女性科学者で、津田梅子が留学した女子大学でであった。ミクロトームと細胞固定化技術のお陰である。ミクロトームは試料をミクロン・オーダーに薄く削り取る装置で、私は複合材料の高次構造解析にお世話になった。精子には2種あって、常染色体は同じ形態だが、性染色体にはXとYがある。100年前である。
- 発生途上に男になれという遺伝子信号がYから出てこないと、染色体としてXYの組み合わせを持っていても生命体は女になる。20年昔ペイジは学会を驚嘆させる発表を行った。男になれという最初の信号の発信元がYのジンク・フィンガー(亜鉛の指先)の遺伝子(ZFY遺伝子)である。ジンク・フィンガー・タンパク質(ZFYタンパク質)は指と指の間に亜鉛イオンを挟んだ形をしている。拡散により、たまたま他の染色体のDNAの中にその部分にぴったりはまりこむ部分を見つけると、そこをしっかり握り込み、その部分以下の遺伝情報にスイッチを入れる。以下順番に遺伝子カスケードを下っていって、個体を男性化する。この機構は男女と女男の研究から解明された。男女と言っても宝塚の男装の麗人ではないし、女男と言っても歌舞伎の女形ではない。XY-female、XX-maleを指す。戸籍上男であったヒトが、実は生物学的には女であったというような話は、最近時折聞くようになった。前者は性染色体がXYでありながらZFY遺伝子欠陥により、デフォルト型つまり女になったヒトで、後者はX型精子が、ZFY遺伝子部分を間違ってどこかの染色体に貰ったまま、卵子を受精させて生まれたヒトである。
- だが誤認であった。ZFY遺伝子が男女を決めているのではないことが、トレーサー付き合成DNAによる実験で、グッドフェローらにより明らかにされた。XX-maleは天のいたずらであるから滅多に存在しない。ペイジの研究対象者の染色体は、ZFY遺伝子以外にもYからたくさんの間違い貰い(落丁)の遺伝子を抱えていた。たまたま新に見出されたXX-maleに、ZFY遺伝子がなかった。新に見出されたSRY遺伝子は、ZFY遺伝子のすぐ近傍の、ペイジの対象者の間違い貰い部分にも共通に含まれていたのであった。SRY遺伝子はまず精巣の形成を誘導し、精巣が作り出すホルモンで男の構造を導く。XY-femaleにSRY遺伝子はなく、幾多の哺乳類動物でもオスにのみSRY遺伝子が存在する。2つ目の論文でSRY遺伝子が性決定遺伝子である証明がマウス実験により完成した。正常XX受精卵にSRY遺伝子「だけ」を組み入れて女男を作ったのである。著者はその実験をバーチャルに記述する。なかなか面白い。
- 旧約聖書創世記二章には、神が人(アダム)の「あばら骨の一部を抜き取り、・・・(その骨から)女(イブ)を造り上げ・・・」と書かれている。アダムからイブが造られた。だが発生生物学はその逆だという。ヒトの受精卵は受精後7週目までは粛々と性別のない分化を遂げる。7週経るとタンパク質WT-1が放出される。性染色体がXXだと、何事も起こらずこのタンパク質は消失し、既に出来つつあるミューラー管はさらに発育すると一連の女性性器になる。ウォルフ管は尿道だ。ところがXYだとSRY遺伝子にスイッチが入る。ミューラー管は消滅させられ、陰唇は縫合されてその一部がペニスになる。本来は子宮になるはずの原始生殖細胞は陰嚢にまで下りてきて将来は精嚢になり、ウォルフ管に接続される。男は女を変形することで造られた。カスタマイズ型なのだ。
- カスタマイズ型の発現方法は千差万別だ。哺乳類ではYのSRYに仕組まれていた。このHPの「性転換」('02)には、メダカではDMYだがそれが決定的ではなく、稚魚になってからでも性ホルモンの経口投与で性転換するとある。ワニ、トカゲ、カメなどの爬虫類の中には、卵の孵化温度で性が決まるものがある。ギリシャ神話のアマゾン女族はなぜ女だけなのか聞いたことはないが、女族で生きる単為生殖種は、遺伝子混合のため、「やむなく」オスを造る時期がある。交尾を終えると、それしか出来ないオスはさっさと死ぬ。アリマキのオスの性染色体はXO(Oは無いことを示す)で、受精後XXとなった卵はメスとして生き延びるが、XOでは奇妙にも生きられない。はじめから半数が死ぬことになっている。アリマキはクローン女族、ミツバチは、書いてはないが、反対に受精女族で暮らす。上記「性転換」では、メスの間借り動物としてしか生きる道を与えられず、結局はメスの体の中に埋め込まれて精子を供給するだけの肉塊になる、哀れなオスを造る魚を紹介している。私は哺乳類のオスに生まれてよかった。男は性の奉仕以外に種の維持発展に別の役割を担うことで寿命を延ばした。
- 明治の中頃までの日本人の平均寿命は短かった。乳幼児の死亡率が高かったためだ。少年になると意外と余命が高くなり長生きした人も多い。私は近年の著しい公衆衛生状況の改善と小児科医学の発達で乳幼児死亡率が限度まで低下したから、平均寿命と平均余命の差はぐっと縮まったと思っていた。それでも調べてみると私の年齢では、後者との差は前者との差の倍ほどある。あと5年生きられると思っていたら、10年以上と言うことでちょっと目算はずれであった。だが家内はさらにその倍だ。2人には年齢差から来るハンデはある。でも女はこの年齢から目立って長寿になる。本書に厚生省の統計が引用されている。あらゆる疾病に対し女の方が強い。ガンには年層別、性別データが示されている。私ぐらいになると女が倍強くなる。理由の1つに男性ホルモンの免疫システムに対する抑制作用が示されている。デフォルト型から造られたカスタマイズ型の宿命なんだ。
- 主題に関する記載はここまでで、あとは著者の雑談である。
- まずヒトのルーツを探る話。このHPには「新進化論」、「日本人になった祖先たち」、「イヴの七人の娘たち」、「日本人はるかな旅展」、「日本人の起源」などにルーツ研究の先端が述べられている。ゲノム解析でルーツ探索は長足の進歩を遂げた。ミトコンドリアからは女のルーツ、Y遺伝子からは男のルーツが分かる。本書は男の話だからYについて書かれている。目新しいのはジンギス・ハーンのYがいまやその世界帝国版図に1600万人に亘り共有されているという記事だ。著者はそれをネタに万世一系の男子相続の意味を考える。我が家系も遡れば皇室から出ていることになっている。「七人の侍」では三船の菊千代がどこかで奪ってきた系図を披瀝する場面があった。あんなことがなければ、また過去に婿を迎えたことがなければ、私のYは皇統と同じはずである。この論理だったら多分日本人男性の10%は皇統だ。女性天皇でも配偶者にYの条件をつければ伝統が破れる心配はない。
- 共にハーバード大学医学部の星であった教授夫妻の劇的な盛衰が紹介されている。60名もの研究奴隷(ポスドク、大学院生、学生、研究員、施設員)を引き連れ、何百万ドルの年収(ポスドクは2-3万ドル程度)であった夫妻が内部告発で実刑を受け学会から姿を消す。大学世界ランクトップクラスのハーバード大学における熾烈な競争現場が見えるように描かれている。アメリカ社会の縮図でもある。日本の私学の雄・慶応大学の医学部ではどうなのであろうか。アメリカ型がベストだとは言わない。だが大学ランクでは慶応大は100位にも入っていないことは事実なのだ。
('09/05/14)