京都の歴史U

脇田修、脇田晴子:「物語 京都の歴史〜花の都の二千年〜」、中公新書、'08を読む。以下は「第4章 南北朝・室町・戦国の京都」から終章までの読後感である。
私は室町文化の息づく場所で若い時代を過ごした。中学校まででは金閣寺、竜安寺、等持院、妙心寺。いずれも禅宗の寺院である。今の洛中に残る大寺には金戒光明寺、知恩院、泉涌寺、清水寺、東・西本願寺や東寺もあるが、南禅寺を初めとする禅宗寺院が多い。炎上前の金閣を最上層まで、一度だけだが、小学校高学年の時に見学したことがあるのが私の自慢である。竜安寺の石庭は京都を離れて何10年か後に見た。いつでも行けると思っているせいか、身近の名所旧跡にはなかなか足を運ばないものである。等持院は嵐電北野線の駅名としての記憶だけだ。境内で遊べるような雰囲気はなかったからであろう。足利将軍の廟所だが、今は小寺である。叢林と呼ばれる官寺で五山の次の十刹のトップだが、覇者権門の後ろ盾を失った結果である。妙心寺は今も観光寺院ではなく、信仰に支えられた在野(林下)の禅宗寺院だ。私にはなじみの場所であった。御室や国鉄の花園駅への道筋だったし、門内の池の亀が遊び相手であった。
衣笠山には宇多法皇が真夏に絹布をかけさせ、一時の雪見の清涼感を味わったという伝承が残る。この話は小学校時代に既に聞かされていた。金閣と竜安寺を結ぶ直線の中間位置にある低い丘だ。隣の御陵地帯との鞍部を何度も行き来した。山一帯が私の蝶採集ポイントであった。戦後、麓に立命館大学理工学部が進出してきた。実験室近くの笹藪がゴイシシジミの秘密の産地で、よく出掛けた。高校の頃は東福寺近くに移り住んでいた。東福寺は京都五山の第5位に入る官寺であった。威厳のある佇まいも、そのころは占領軍兵士とパンパンと称した売春婦たちの白昼野合の現場で、通学路としては不適切になっていた。でも紅葉の名所・通天橋はまだ通行無料だったから、秋にはいつもその道を選んでいた。
断片的だが、本書に室町時代の物価が出ている。銀9匁で米数斗。この時期の概略の換算率は金1両=銀50匁=銭4貫=4000文だろうから、1石=1300文だ。銭は輸入中国銭基準で、品質が長年安定し、それは江戸期まで続いた。だから比較基準になる。容積単位の石は時代とともに多少は変化しているだろうが、詳細は判らないのでこれも一定と考える。江戸初期に幕府は度量衡の整備をした。容積に関しては福井家の京升が標準となった。今の升と同じだという。一次近似的に室町時代の升も同じだと思ってよいのではないか。江戸安定期の米価は1両/1石というから、300〜400年ほどの間に3倍ほどの値段に上がったと言うことだ。人口は数倍以上になった。日本の経済規模は20倍ほどになったと言うことだ。
中国との貿易が載っている。金、銀、銅、刀剣、織物、扇、漆器などが輸出品で、銭や生糸を輸入する。首尾よく商売が成立すると、だいたい仕入れ価格の5倍で売買される。遣唐使船が4艘船団で出掛けたのは有名な話だ。往路で半分、復路に半分を失って戻ってきたときは1艘になっているというのが計画であった。官の計画は常に安全率を高く取るから、実際の帰還成功率は5割ぐらいだったろう。江戸時代の貿易船はオランダ船と中国船に限られていた。中国船のジャンクは安全構造では世界の先端を行ったから、難破による不成功は数えるほどになっていただろう。売値と買値の値差は難破危険率と指数関数的関係にあるだろう。今、篤姫ブームで、薩摩藩の琉球密貿易が話題になっている。長崎や那覇における対中国貿易の実態はどんなであったか興味がわく。
義満が相国寺に建てた七重大塔は71mHあったという。上総国分寺の七重塔が60mH程度、東大寺のそれは100mHぐらいと識者は語る。現存する最高塔は東寺の五重塔で52mHそこそこと聞く。7/26 NHK総合「探検ロマン世界遺産・マラムレシュの木造教会」では塔高76mと紹介された。木造建築は日本と思っていたので意外であった。それも村人の建築で、全国から選りすぐりの工人を集めて建てたのではない。ただし240年前の建築。義満の七重大塔は600年あまり昔のものである。このルーマニアの山岳地方民族はキリスト教化が遅く日本の室町時代で、それまではオオカミを自然神として崇めていたという。オオカミは教会の彫刻などに残っていて、完璧に駆逐されたはずの「邪宗」神の面影をわずかに偲ばせている。
佐倉の歴博に行くと、室町時代の展示室に京都の酒屋の位置を指し示す地図がある。本書には南北朝・室町時代の酒屋、大工・番匠、土倉、扇、油、材木および両側町と片側町を示す地図が載っている。市街地と言える区域は東西は左京の大宮通から寺町通りまで、南北は北大路から九条通までだ。その長方形域の中でも京都駅から南東はもう市街地ではなかったようだ。多分地下鉄東西線あたりを境界に北の官衛街・上京と下町・下京に分かれていた。商工業者には座という親方連合のギルドが出来上がっていて、加盟が商売の必須条件だ。彼らはその地に勢力を持つ寺社に所属して、御用を弁じつつ商業の特権を得ていた。麹座は北野社、綿座と材木座は祇園社、後世に斎藤道三を生んだ油座は大山崎の石清水八幡社にと言った具合だった。土倉とは金融業者で質屋を指す。それに座があったかどうかは書いてないが、酒屋とともに山門(延暦寺)の影響下にあった。麹座が麹製造売買独占権を幕府に申し立て、洛中酒屋の麹室を役人立ち会いの下に破壊したという資料が残っているという。それに洛中400軒の詳細が記されている。
業者が神人とか寄人と称して貢納逃れをやり出すと幕府は営業税をかけ出す。座が税の一括請負に乗り出す。ダブル・トリプル支配と盗賊の横行への対策に、街は自営自治を固めて行く。町共同体は司法問題につき相応の範囲で内済できるようになった。共同体はその上部組織として町組を作る。町組・親町・枝町と寄町と言った構図の連合組織になった。秀吉の作った御土居はもうほとんど残っていない。北野社あたりの紙屋川東岸、鷹峯(鷹ヶ峰)の御土居は見た。昔幼少の折りには、嵐電本線の三条口あたりから西に連なって見えていた竹藪の御土居は、いつの間にか撤去されて無くなってしまった。鷹峯のは多分一番原形に近い。御土居は結局一度も実戦に使われなかった。
大陸の都市城塞に比べればいたってお粗末だから本格的戦争にはどれほどにも役立たないのではないか。でも一時的争乱には役立ったろう。京都の町民にはあれは大変な安心材料であったと思う。なぜなら、町組はその原形たる惣構を経験済みであったからだ。室町末期から戦国期にかけて近郊村落民による借金棒引きをねらった徳政一揆・土一揆が頻発する。これが拡大して山城国一揆のようなコミューンに繋がって行く。宗教主題の法華一揆とか一向一揆がからみあって、乱世の京都はめまぐるしい。時代劇と言えばたいてい幕末の江戸が舞台だが、この時期の京都はあの頃の江戸に比べれればはるかに複雑怪奇で、空想を逞しくすれば面白い小説が描けると思うのだが、時代小説の先生方はどう思っていらっしゃるのだろう。本書を一度お読みいただきたいものだ。
幕末に大名貸しの両替商が踏み倒しにあい大量倒産した。似たような事件が17世紀後半に京都で起こっている。政治の中心が江戸に移り、経済は大阪に集中するようになって、京都の地盤降下が決定的となった時期と重なる。京都の豪商50数家が相次いで没落した。1時期1都市の数として半端でない。今日のサブプライム・ローン騒動におけるサブプライムは低所得者層だが、当時のサブプライムは大名であった。豪商もよく心得ていたようで、互いに「枝手形」を発行して、共同して貸し付けを行った。これは危険分散のためであったが、私の推測では共同踏み倒しにあって、金融連合が総員討ち死にしたようだ。今なら政府が出動するが、当時の幕府は何もしなかった。逆に裏で、共同踏み倒しの糸を引いていたのかも知れない。
政治経済武力が集中した豊臣政権時代が京都の頂点であった。人口は100万を数えたが、徳川期に入るとすぐに縮小を始め35万程度で安定し明治を迎える。東京への首都移転により一時は12万の流出を見る。以後には近代的な統計数字があって、明治31年にほぼ元の35万(旧市街地)を回復し、市域の拡大(28倍)もあって今では150万を数える。豊臣政権時代には宇治にまで民家が並んだというから、秀吉の目論んだとおり、御土居の中は人で満ちあふれる状態だったのであろう。行政区域図を見ると、大正7年に市域は倍増している。でもまだ京極村、西院村、太秦村、花園村、上賀茂村などの地名が見える。これらは昭和6年に編入された。だから、御土居内人口に対比できるのは、昭和5年の77万である。そう考えると、本書の豊臣時代100万はちょっと過大だと思う。城下町の伏見町の人口も算入したというのであれば別だ。
さて近代。私にとって山宣は歴史上の人物だが、社会党代議士・水谷長三郎、知事・蜷川虎三は現役時代の生の政治家であった。少年期までの国鉄との接点は花園駅であったが、山陰線の京都側始発駅が当時は二条駅であったとは知らなかった。阪急電鉄による京都乗り入れは戦後のこととなっているが、それは経営に関する話で、京阪電車による新京阪線はとっくに開業しており、私は西院駅の地下ホームに降りるのが大好きであった。私が行ける唯一の地下ホームであったから。
信長上洛からの歴史は、特記するもの以外はだいたい記憶の片隅に細切れ的にせよ残っていて、ほぼスムースに読み進むことが出来た。本書は京都の歴史という表題だが、丹波や丹後は皆無に近く、今の京都市域あたりに限られた記述であった。でも千葉と違って、地方史としてよく纏まっている。千葉は政治上も経済上も文化上も求心的な立場に立った経験が少なく、どう表現してもバラバラという印象を免れない。早く道州制を実現して、千葉の歴史ではなく関東の歴史という把握で地方史を位置づけることが望ましい。

('08/07/29)