新しい発生生物学T
- 木下圭、浅島誠:「新しい発生生物学〜生命の神秘が集約された「発生」の驚異〜」、講談社BLUE BACKS、'03を読む。ES細胞、iPS細胞、ガン細胞などの最先端医学の理解には発生学(発生生物学)の知識なしには済まされない。本書は今月月初めのダーウィン展の会場で手に入れた。出版は'03年だから日進月歩の科学の解説書としては賞味期限ぎりぎりである。確かに、ES細胞までは記載されているが、今ホットなiPS細胞は載っていない。だが類書は見なかった。我が国では本書が関連の最新の入門書なのであろうと思って買った。索引付きの親切な解説書である。
- 同じ時期に、万能細胞を特集したNewton誌('08年6月号)が出た(以下Newton誌という)。ガン細胞についても6p.に及ぶ解説がある。35-38p.にヒトの胚期を経時的に追った模式図が示されている。分裂回数と対応する胚の構造と名称、受精後の経過時間などの関係が明示されている。本書では、異なる実験動物が入れ替わり立ち替わり出てくる。動物間の相違を超えて理解するのに戸惑う場合がある。読者は、本書に入る前に、ヒトの胚期についてまずこのNewton誌を参考にされるといい。
- 卵子形成には長い準備期間が必要で、その間に母から栄養となる卵黄タンパク質や脂質以外に、多くの情報タンパク質やRNAが運び込まれる。精子は父方の遺伝情報を持ってくるだけとある。基本的に受精は「行李一つ」の婿入りで、受精卵の生育のための準備作業一切を母方が受け持つ。栄養ドリンクだけではない点に注意しよう。クローン羊のドリーは3匹の母羊から造られた。第1の母は乳腺細胞の核を提供した。核は第2の母羊の、あらかじめ核を抜かれた卵子に仕込まれ初期化される。次いで電気刺激を与えて細胞分裂を始めさせる。ES細胞iPS細胞の時には出てこない操作で、なぜだかよく分からなかった。細胞質からの因子や遺伝子は第2の母からだから、完璧なクローンとは言えないと言えばその通りである。第3の母羊は、人間でいうなら代理母で、ホトトギスの托卵と同じ操作だ。第1+第2のクローン細胞を着床させる、つまり腹を貸す。受精卵=胚は卵割を経て胞胚腔を作り胚葉に進む。さらに遺伝子発現により分化して目的の器官に生長する。
- 遺伝情報はあらゆる細胞が同じものを持っている。遺伝子発現は目的ごとに異なるタンパク質によって行われる。だから転写されるm-RNAが目的ごとに異なっている。この分化の命令は細胞外からリガンド、たとえばホルモンというタンパク質、の形でやってくる。細胞膜にはそれだけを受容するレセプターが待ち受けていて、シグナル伝達を受ける。これで転写のスイッチが入るのだが、さらに詳細には、転写開始位置よりちょっと上流のプロモーターとそれとは別の位置のエンハンサーという領域があって、開始と制御をリガンド情報により司っている。スイッチのオン・オフ機構はまだ不明の点も多い。とりわけオフ機構については触れられていなかった。
- ショウジョウバエが、遺伝子研究の実験材料として広く利用されてきたことは、よく知られている。京都工芸繊維大学に飼育センターがあって、系統的飼育されたハエが世界の研究者に役立っている。私が小学校の頃はカイコの研究で有名であった学校だ。発生はマクロには体軸作りから始まり体節が出来、その体節の個別化へと進む。大雑把に形を決めるマスター遺伝子がショウジョウバエを材料にして発見された。数にして50種。この50種は共通の塩基配列を含む。群として働き、上位の遺伝子が転写制御因子を保有していて、上位が働いたあとで下位が働くように、いわばカスケード制御方式になっている。ドミノ倒し的と書いてあるが、フィードバックが全くないわけではないだろうから、カスケード方式と書く方がいいのではないか。
- このマスター遺伝子は動物共通的な面がある。相同的な遺伝子という。ダーウィンは、高等動物の発生過程で下等動物時代の姿を経由する形態上の変化を、進化論の一つの証拠とした。ダーウィン展でも取り上げていた。130年を経て分子レベルの進化論が着々と証拠立てられつつある。ヒトとハエの頭尾軸上の器官配置に相同的な遺伝子が関わり合っている。昆虫は進化樹上一つの頂点に立つと言われ、ヒトとは最も遠い存在なのに、発生の初期段階では相同的な遺伝子を互いに活用していることに驚かされた。目を造る遺伝子も相同的だ。ラットのそれでなんとショウジョウバエの目を造ることが出来る。全く異なる構造の目を造り出すことが出来るのである。目の位置も本来触覚が出来る位置に働かせればその位置に造られ、肢の位置を選べばやはりそこに造られるという。見えるかどうかは書いてないが、発生学から言えば見えると思うのが自然ではないか。
- 続々と気味の悪い実験が紹介される。イモリの前肢を切り落とすとやがて再生が始まる。肉のコブが出来た段階で、今度は後肢を切り落とす。再生が始まっているコブを後肢に移植する。コブを根元の肢肉をつけて移植すれば、後肢の位置に前肢が再生され、コブだけだと後肢になる。ヒトにはそこまでの組織再生は出来ない。だがもっと下流の、皮膚とか血は日夜再生し続けられている。イモリの受精卵の発生初期に現れる形成体を、別の胚の形成体の反対側に移植すると、頭が2つのオタマジャクシが生まれた。どれもこれもお化け製作技術を聞くようで気味が悪い。今は不可能らしいが将来ヒトに応用できる技術が出てきたらどうしよう。命をメスで操る恐ろしさは、私が昔、医学部から工学部に転部した理由の一つになった。
- 私は下戸中の下戸で、現役時代には社交術を制限され、それが一種の劣等感の源となった。だからか、悪酔いの論理に強くなった。体内のアルコール分解サイクルは2通りある。1升酒のヒトはどちらも完璧、訓練するとどうにか飲めるようになるヒトでは、主サイクルは駄目だが副サイクルが補っている、私は両方のサイクルがどこかで切れている口だから、足らない酵素を外部から補給せぬ限り全く酒を受け付けない。全く哀れな存在だが、ここで言いたいことは、重要な生命反応には迂回路がちゃんと用意されていて、生命の安全を守ると言うことだ。「飲める飲めない」は大して重要ではないから迂回路は1つだけだ。ロング・ベストセラーになった福岡伸一:「生物と無生物のあいだ」にも酵素産生をノックアウトされたラットの迂回路の話が出ている。動的平衡系として生命を捉えている。脳梗塞後のリハビリはもっと高次の迂回路活用なのだろう。
- 私の話を含めこれらは、成体の分化を終わった段階の生物学であった。本書には発生初期に起こる中胚葉誘導と神経誘導について説明をしている。著者はこの方面で世界的な業績を上げているらしい。中胚葉誘導は形成体を誘導し、それが体軸を決定し、胚の形態形成の中心となる。単細胞から出発して成体に至る1歩目か2歩目なのだから、その複雑さは「酒が強い弱い」の比ではないことは誰でも分かる。だが、ダイナミックに発生が進行するさまは、生命体の基本にある原理を映し出す。カエルの胚を実験材料にするのだが、単離されてくる物質は脊椎動物共通の細胞増殖因子に含まれる。こんな事実も分子進化論は証拠にしているのだろう。主要中胚葉誘導因子のタンパク質アクチビンがお母さんから我が子への最後のプレゼントで、卵母細胞にあらかじめ準備されているそうだ。あとは自分のDNAからmRNAを作り体を形成してゆく。
('08/05/22)