佐保路・佐紀路

同期会が大阪で催された。会を立ち上げてから半世紀を経ている。同じ釜の飯を食った仲間だ。出席率が7割だった。幹事もよかったが、互いの家族意識が基本だ。希薄な人間関係をよしとする現代の若者にはこの数字はなかなか理解されないだろう。翌日を佐保路・佐紀路ハイキングに当てようと決めていた。近鉄奈良線で西大寺に向かう。宿を出てから正味40分ほどで、10時半頃には西大寺北口の奈良交通バス停留所に立っていた。不退寺口で降りる。あとは歴史の道、サイクルング・ロードをたどることとなる。
不退寺(業平寺)は入山有料。いかにも小寺だが、「萱の御所」以来の誉れ高い歴史を持つ。主要建造物の南門、本堂、多宝塔が皆重文で、本尊の聖観世音菩薩立像(平安初期)も重文だ。庫裡の狭い庭に石棺が置かれている。近所の古墳から出土したものらしい。草刈り鎌を研いだ痕が見られるという。パンフレットに花の古寺とある。多宝塔前の池の黄菖蒲が満開だった。今度のコースでは黄菖蒲にあちこちでお目に掛かった。他のアヤメ科の花も満開であったが、とりわけ黄菖蒲が多かった。門の脇にオオデマリ。あちこちでは見ない花だ。私が最後に見たのは昨年の丁度今頃の山梨県立博物館の庭でであった。終わりに近いエニシダ。庫裡に見慣れぬ草花があり、案内してくれた住職に聞いたらテッセンと言った。ツルニチニチソウ。ウワナベ池から航空自衛隊幹部候補生学校前を経てコナベ池を反時計回りに半周し、磐之媛命(仁徳天皇皇后)陵前に出た。ウワナベ池、コナベ池の陵墓参考地(なぜか水面近くの樹木は切り払われていた。)よりはさすがに保存整備が行き届いている。外濠前にたたずむ人を何組かみかけた。オニタビラコ、タンポポ、オオイヌノフグリ、それからウマノアシガタかと思えた黄色い花などを覚えている。水上池西脇を歩く。キツネノボタンを見た。20-30cmの花軸の頂部に赤味がかった4枚花弁のアブラナ科らしい草本をあちこちに見たが名を知らない。ホケキョの声を聞いた。まっすぐに南に下ると平安宮跡の遺構展示館に行き着く。
私はこの宮跡に一度立ち寄っている。もう昔々、長屋王邸跡発見以前だったから20年以上も昔のことである。遺構展示館はそのころ既に開所していた。だがそれ以外では内裏と第二次大極殿の石の基壇、発掘で明らかとなった建造物の柱の位置を示すコンクリートの柱ぐらいしかなかった。今回訪れてみると、次々と復元建造物が建てられ資料館まで出来ている。最大復元建造物の第一次大極殿は2010年に完成するという。平城宮遷都が710年で、丁度1300年後に当たる年だ。広い宮跡にいろんなアクセントが加わって、この上ない公園に仕上がってゆくのは喜ばしい限りである。
私は東院庭園と南東に位置する式部省、壬生門あたり以外をゆっくり散策した。平城宮は長岡宮遷都の時に建造物の大半は解体して長岡に移築してしまった。その長岡も短命だった。平安京にまで運ばれた建物もあったろうが、火事に遭わなくても、映画:「羅生門」が描いたような姿を経て朽ち果てて、今日に伝わらなかった。だが、例外的に唐招提寺の講堂は、もらい受けた東朝集殿の建物が基礎になっている。建設期の合う薬師寺東搭などとともに復元建築に大いに参考にされたようだ。何よりも幸運であったのは、跡地が農地になり、地下の遺産が丸々残り、しかも発掘容易の状態だったことであろう。京都、長岡と比べればよく理解できる。藤原京はその点平城京と状況が似ているから、あるいは将来耳目を驚かせる成果が出るのかも知れない。朱雀門は現在の復元建築物群の中の目玉である。
メーンストリートの朱雀大路に立ちふさがっている。背の高い土塀が両脇に広がって内と外を区別している。でも中国の城壁とは全く違う。東北の対蝦夷最前線であった多賀城跡もこの程度の守りであった。平和国家だったなどと言うきれい事は通用しない。戦争技術とか戦争規模がこの程度の防衛施設で何とかなるレベルであったと言うことだろう。中国もそうだったが、日本も戦国時代を経て初めて壮大な城郭へと「進歩」する。近鉄奈良線には頻繁に電車が走る。開かずの踏切を何とか通って第一次大極殿に向かう。排水路にはイグサ、野にはムラサキサギゴケにミヤコグサが目立った。ハルジオン、ハタスゲ、タンポポ、シロツメグサ、アカツメグサ、オオイヌノフグリ、コゴメツメクサ、オニタビラコ、ツユクサ、コオニタビラコなどなどまさに野花の宝庫になっている。ニワゼキショウが一杯に咲いている。千葉ではまだだ。天高くホバリングしている小鳥は時折地上に降りてくる。あれはヒバリだったか。明るい空を高く飛ぶ鳥は、模様はもちろん色もはきっきりしないから、なかなか同定できない。ツバメとムクドリは確実いる。大極殿復元現場には公開施設があって2階から加工場現場を覗けるようになっている。ビデオを何本か見せて貰った。朱雀門よりもう一回り大きい。東大寺の大仏殿並みの広さと法隆寺の法輪の先ほどの高さがある。この広大な空間を吹き抜け構造の平屋として利用していた。何とも贅沢な設計だ。
最後に資料館にはいる。明治期の宮跡が模型になっている。水上池の中央にある東西を結ぶ細いあぜ道はその頃からあった。池を半分分けしているのは用水上の知恵なのか。北隣の市庭古墳(今は平城天皇陵)は造営の時に前方部が大きく削られ濠は埋め立てられたそうだ。平城天皇は桓武天皇の次の天皇で、平安京から平城京への遷都を試みられた。削った古墳のリサイクルで天皇陵を造るとはちょっと信じがたい処置だ。調べたら、平城上皇が薬子の乱に敗れたためらしいと分かった。隼人の盾のコピーがあった。井戸板に使われていたそうだ。隼人の国・鹿児島の博物館でも模造品を見た。長屋王邸は聞きしにまさる広大さだった。甲子園球場の1.5倍という。使用人数も500人あまりとあった。王は吉備内親王を正妻とする貴族中の貴族で、藤原不比等亡き後の皇親政権の長であったが、内部告発による長屋王の変で自刃に追い込まれた悲劇の人である。妃も3人のお子も命を絶った。藤原氏の陰謀とも言われている。
10日のTVニュースで訪日中の胡錦涛中国国家主席が朱雀大路の朱雀門前で話す姿が放映された。あいにく雨であった。前日、外務省の示威運動行為を禁じる告示文書が宮跡に張り出されていたのを覚えている。
古墳地帯に民家が増えている。西大寺と法華寺周辺の民家も増えた。近鉄奈良線、京都線の車窓も様変わりして、昔の田園地帯という雰囲気は薄れてしまった。大都会を控えた沿線地帯が開発されるのは自然の勢いではある。でも歴史風致地域の家屋建設には更なる景観維持の努力が必要だ。奈良盆地全体に対して強くそう感じる。

('08/05/11)