ジャガイモの世界史
- 伊東章治:「ジャガイモの世界史〜歴史を動かした「貧者のパン」〜」、中公新書、'08を読む。戦中、戦後はサツマイモが大好きであった。主食代わりに配給されたこともあった。好きであった理由は多分甘いものに飢えていたからである。でも今はジャガイモの方を好む。味に自己主張がないから、ほかのどんな素材にも、またどんな味付けにでも合うから、つまり癖がないから、万人受けするのである。
- 原産地は南米インカ帝国のあったアンデス山脈高地地帯だという。インカ帝国がスペイン兵に蹂躙されたのが1533年、それからヨーロッパ経由(1570年頃)でオランダ商船によって日本にジャワ島のジャカトラ(ジャガイモという名の起源)からもたらされたのが16世紀末である。半世紀実質は1/4世紀ほどのちだ。岡田晴恵:「感染症は世界史を動かす」、ちくま新書、'06によると、梅毒はコロンブスの新大陸発見後たったの25年で日本上陸を果たしたそうだ。梅毒が刹那の性交渉で決定的に移るのに対して、ジャガイモの栽培はトライアルアンドエラーの連続だから、これは驚くべき伝搬速度だ。原産地の特定、伝搬経路、野生種から栽培種への経過はDNA観点からの説明が欲しかった。有史以前の出来事例えば日本人の起源でもDNA解析から論じる時代である。
- 私はかって米と小麦の収穫率、収穫倍率の差から中世の日本とヨーロッパの人口密度の差を論じたことがあった(本HP:「新書ヨーロッパ史 中世編」)。本書にはジャガイモを主食として受け入れたアイルランドでは、60年ほどの間に人口が倍増したと記されている。アダム・スミスは「同じ面積の耕地で、ジャガイモは小麦の三倍の生産量がある」と言っているそうだ(本書の論理に基本的なデータ。現代では正確にこの比較が出来るはずだが、触れられていない。文献は幅広く追っかけるが、定量的に検証しようとしないのは、本書に限らず文系著者がしばしば見せる欠点である。)。ヨーロッパことにその北国にジャガイモの植え付けが急速に広まったのは、ジャガイモが、出身から言っても判るように、もともと荒れ地、寒冷地に強いことがまず第一の理由だ。それからその時代が小氷期(16世紀半ばから19世紀半ばまで)で凶作と飢饉が相次ぎ、多分それがまた一つの引き金になってヨーロッパの17−18世紀は戦争の絶えない時代であったため、戦乱による農地荒廃が餓えを増幅したためである。
- 私は現役時代のまだ若かりし頃に、中部ドイツに技術実習のため1ヶ月ほど滞在したことがある。昼は工場食を食った。あの地方のドイツ人は昼にご馳走を食う。でも毎々主食にはパンがなくて蒸しジャガイモが山盛りだった。家庭に招待された経験では、夕食は割と簡単だったがパンが出た。本書にはドイツは書いてないが、「スエーデンではジャガイモは・・・主食の地位を占めます。」とあった。やっぱりそうだったんだと、何十年ぶりに疑問に答えを貰った気がした。中学校の英語の影響で、主食はパンと思い込んでいたから。
- アイルランドからは大量のアメリカ移民が出た。1841年からの10年間に100万人に達したという。800万人そこそこの人口の中からの流出だから異常である。理由は大飢饉で、150万人の餓死者を出している。この飢饉の別名がジャガイモ飢饉だそうだ。ジャガイモ疫病が毎年畑に襲いかかりイモの収穫が途絶えた。英国支配は12世紀來800年近く続き、大半のアイルランド農民は英国人地主の小作人として生きるしかなかった。小作料は耕地の2/3を使う小麦で、残りの1/3の土地のジャガイモが農民の取り分だった。飢饉の最中でも小麦は英国に運ばれていたと言うから、人工の飢饉でもあった。アイルランド人は年貢のためだけの家畜に近い存在だったのだろう。ジャガイモ疫病はジャガイモ主食の他国にも襲いかかったが、飢饉を生んだのはアイルランドだけだったようだ。
- しかし小作料の2/3は、本書にあるような「苛斂誅求」かどうか、ちょっと昔のデータを調べてみた。本HPの「ディオクレティアヌス帝」には、中世の封建領主が治めていた時代の領主に支払う小作料は、50%ならオンの字で、70-80%などはざらだったと書いている。「伊予小松藩会所日記」には、「米作りの百姓はその半分以上を領主の年貢に納める。小作だったら更に残りの何割かを地主に作徳−小作料−として取られる」とあるから、まあ80%は吸い上げられている。「千曲川のスケッチ」には、75%が年貢と書いている。農本経済の時代には、2/3はまあ当たり前の小作料で、英国人地主だけが飛び抜けて苛斂誅求ではなかったと思われる。
- 貧者のパンは国力増強を焦る国王たちにとって天の恵みであった。プロイセンではフリードリヒ大王がジャガイモ令を公布して植え付けを強制する。彼はその統治の間に領土を6割以上拡大し、人口を2.4倍に増やした。フランスでは18世紀に18回の飢饉と相次ぐ対外戦争があった。フランス革命間近の王朝が、それでもジャガイモ奨励策を忘れなかったと言う記事がある。ロシアにおける農民の抵抗はすざましかった。普及は他のヨーロッパ諸国より1世紀近く遅れた。ロシアだけでなくキリスト教文化圏では、飢えても「ジャガイモは聖書に出てこない食物」で、農民の抵抗や偏見は強かった。
- 産業革命期のイギリスの労働者の生活は、労働力が買い手市場で、資本の論理がフルに働く場合の極端を表していて興味深い。彼らの稼ぎは週に25ペンスから2ポンド(19倍)だった。25ペンスでは食うだけで精一杯、家賃も払えぬ収入という。エンゲルスは書く。3/4は1家族1部屋で、最下層のアイルランド人になるとジャガイモだけの食事になると。イギリスの産業革命期は日本の江戸後期・幕末前に当たる。本HPの「江戸の米屋」「熙代勝覧(きだいしょうらん)」「武士の家計簿」などには当時の町民や武士の家計を載せている。日雇い人夫と大工の日当比が3.5〜9.3、まじめな最低生活者とまじめな大工の年収比が9〜27であった。言うまでもなく日雇い人夫とか最低生活者は未熟練労働者で、大工は熟練労働者に分類できる。現在で言えばワーキングプアと高級熟練工、専門技術職に相当しよう。せいぜい年収比3〜4である。労働法は資本の論理を1/3程に値切っていると言えるのではないか。労働力の門戸開放は研究者から始まり今高級技術者に及んでいる。海外進出により一般労働者も日本の労働法の規制を受けない人数が増えた。正社員と派遣社員の収入格差が2.1という。その格差も問題だが、労働の質に伴う格差は今後は10〜20に向けて広がるであろうことの方がより大きな問題であろう。
- 太平洋戦争中の食糧難は、食い物の恨みというヤツで今でも生々しい。京都の我が家には開墾に値するほどの庭はなかった。塀と垣根に沿って蔓性の、たとえばカボチャのような野菜を育てるのがやっとだった。開発途上国がおいおい中進国になり先進国となって行く。それに従って、食料の奪い合いが起こる。自国に十分な耕地面積のない我々は心細い。ドイツは戦中輸入が途絶えた点では日本と同じだが、彼らにはクラインガルテン(小さな庭)という逃げ道があった。小さなと言っても平均300m2もある農園だ。市民は我が庭は言うに及ばず公園から路傍にまでジャガイモを植え飢えに対処した。統計ではその総計は生産農家の全生産量と匹敵するほどの収穫であったという。ロシアではソ連が崩壊し、市場経済のために1年で物価が26倍になったとき、都会民は一斉にダーチャ(夏の家)を開墾してジャガイモを植えたという。来るべき食糧難時代にジャガイモが日本で救世主になるか否かは、米に対するジャガイモの力量に掛かっているのだが、そのデータが示されていない。
- 日本でジャガイモがお助け芋になる機会は昭和一桁後期に訪れた。東北大凶作だ。だが「お助け」出来なかった。私は上記パラグラフ最後に書いた問題意識の故に、凶作が軍国化の引き金になったというような既によく知られた歴史よりも、その本当の理由が知りたいのだが、「天候不順による病害虫」「種芋保存対策」などの問題が風説として記載されているだけだ。現在はこれらの理由が克服されているのかも明らかでない。ジャガイモの日本上陸地点は長崎である。でも近所の青果市場に長崎産の春ジャガを見たとき、南の九州からも出荷があるのだと幾分驚いた。本書によると長崎は北海道に次ぐジャガイモ産地だそうだ。作付け面積第5位のニシユタカが長崎県奨励品種になっている。第1位の男爵イモ、第2位のコナフブキ、第3位のメークイン、第4位のトヨシロまでは北国向け品種だ。男爵イモとメークインが外国品種だったのはちょっと意外だった。
- 私は粉吹きイモが大好きだ。このHPの「ジャガイモ男爵」に「北海道がジャガイモで全国制覇をした理由は美味さだ。ジャガイモは全国どこでも生産可能だが、寒冷地のは芋に貯蔵される澱粉の量が違う。温暖地では、暖かいために夜間であっても植物としての生命活動が盛んである。夜間には光同化作用がないから、芋に蓄えた澱粉を消費して生命活動のエネルギー源にする。だから本州のジャガイモは澱粉の割が少なく水っぽい。」という記載がある。バスガイドの説明だ。ジャガイモの澱粉含有量を「澱粉価(ライマン価)」と呼ぶ。単位は重量%らしい。男爵イモは一般には14程度だが、粉を吹かすには16は欲しい。今金(地名)ブランド品には18に達するのがあるという。2-3割市価より高いという。「北海道・カムチャッカ・クルーズ」(HP参照)のとき網走で北緯44度と言うジャガイモ焼酎を手に入れた。癖がない焼酎で好評であった。調べてみるとコナフブキを使っていた。澱粉価が5ポイントほど高いという品種だ。全ロシアジャガイモ研究所の記事に澱粉価30の開発品の話が出ている。
('08/04/09)