
- 百貨店の地階にお気に入りのコーヒー店がある。口に含んでややあってから飲んでしまうと、後に残る味が七色に変わりながら消えて行く。別段変わったたて方ではない。フィルターに無造作にひきコーヒーをほりこんで一杯分を取るだけである。何回もきているから店のたて方は完全にマスターしたつもりになって、豆の出所を聞いたらうかつであった、そこは豆を売る店でコーヒーは利き味のためにサービスでやっていると言う。早速100Gを粉にして貰う。持ち帰って早速立ててみる。ところが同じ味にならない。店で飲むと七色なのに家では二色ぐらいだ。
- 次の週またその店へ。頭を空にして一から観察し直す。よくみると思い違いが結構ある。これで出なければ後は水と湯沸かしの材質だけだと思えるところまで観察してまた100G買う。ひき方は私に入れたのと同じになるよう特に指定する。今度は四−五色ぐらい出た。工場のトラブルシューティングみたいなもので因子をあれこれいっぺんに変えているから本当の因子は解らぬが、こつはひき具合と分量それにお湯の温度のようだ。親から頂いた味センサーまだまだ健在。新しい発見は鋭い感覚から。味らい磨きも研究のため。贅沢のためだけではありませんぞ。ものの本にもそんなことが書いてあった。高分子材料の加工性判定に一番気の利いた方法は親から頂いた粘弾性測定装置を活用することだと。つまり歯で噛んで見ろとあった。
- 私は茶どころに育ったため、茶の味だけは解りますと仲間に吹聴してある。昨日は結構飲ませる茶を地元で見つけましたと、もっともらしい顔をしながら、私の部屋を訪れたお客に急須から茶を入れる。錫の茶筒に木彫りの茶匙。茶碗はコップしかないが、一応の雰囲気である。お金を弾むならなんぼでも良い茶がありますが、安くて旨いお茶でしょうと問いかけると、たいていは困惑した顔をしながら余り茶はたしなみませんがお茶の良さを見直しましたとか何とか云って、もじもじして退去してしまう。なあに私だって唯の茶としか思っていない。尻の長い連中の撃退策なのである。何時になったら私にはうまいとも思えませんと正直に云うのが出てくるか楽しみである。裸の王様だから馬鹿正直で無遠慮な学生どもには出さぬ。
- コーヒーで感じたのは後味は舌の後ろ脇に残るということだった。ここはうま味を感じる場所である。うま味として分離されている成分を旨く調合したら何とか一味くらいは出せるかしらん。ようし今度は唯の茶にグルタミン酸とイノシン酸を振りかけて京都の日本海側でしか採れぬ余り有名ではないが知る人ぞ知る通の茶だとでも云ってあの尻長先生に味わって貰おうか。この際京都を出すのは大切である。我ら田舎もんへの権威付けにはこれ以上のものはない。なんてあれこれ思案するとすっかり楽しくなった。時には骨休めにいたずらもします。
- 後で知ったのですが、かのコーヒーは京都の業者の調整でした。こうしてみると京都とは名だけではない。京都学はやる価値があるのかな。ご高説拝聴いたしたし。なお念のためと思い通中の通と自称するきちがいを連れて行きそのコーヒーを飲ませたら、旨いと云って唸った。
('94/12/24)