東条英機

市ノ瀬俊也:「東条英機〜「独裁者」を演じた男〜」、文春新書、'20を読む。巻末の参考文献約240編はほとんどが日本人の著作。東条英機自身からの発表は7編の著作と東京裁判の記録である。間接的に伝わる彼の発言は、参考文献にたくさん出てくるのであろう。著者・市ノ瀬氏についてはほとんど知らない。九州大で比較社会文化を専攻し、現在埼玉大教授。今次大戦について多くの著作を世に問うている。
おわりは「東條自身は、・・・、大東亜共栄圏の思想に殉じて死んだ。あとに残ったのは、国民に竹槍での無謀な戦を強いた愚かな指導者としての東條の記憶だった。」とと結んでいる。その前に「東條をはじめとする戦争指導者層の「総力戦」認識において重要視されていたのは、航空戦力と国民の「精神力」の両方であった。」とある。当時の我ら小市民も精神力はいやというほど聞かされたが、海軍はともかく陸軍にも航空戦力に力点があったとは、国民に意識されていなかったのではないか。
もの心がついて以来時に応じて大東亜戦争を想った。負け戦の回想は決してうれしい気持ちにさせなかった。そもそも1/10の兵備能力で開戦とは気違いか。私は敗戦を国民学校6年生で迎えている。「戦争は俺の責任ではない、俺は被害者」論が活発で、「やむなく片棒を担がされた」論で戦後しばらくはメディアの紙面が賑わったような記憶がある。あれだけ「旗振り」をやったくせに、弁解もほどほどにせいと思ったものだ。私はそろそろ人生を閉じねばならぬ歳になった。東條英機の総括も私には必要である。
「第五章 敗勢と航空戦への注力」から読み始める。戦争の終わり方は対峙する文明の、ことに敗者側のそれのメカニズムを端的に表現する。ヒットラーは最後まで真の独裁者で、彼を頂いたドイツは徹底抗戦の末、首都ベルリンにソ連軍旗が翻り、ヒットラーが自決するまで降伏できなかった。東條英機は独裁者を演じたが、敗戦1年前('44/7)に総辞職に追い込まれ、以後は局外孤立の1重臣として、陛下には一度だけ戦局将来に関する諮問に答える機会を得ただけであった。この流れには天皇が国政最終の決断を行う体制がものを言っている。
ガナルカナル島の戦闘で我が軍が撤収のやむなきに至った頃('42年末)より、敗勢が意識されだし、総帥交代の運動が活発化する。治安維持、反戦思想の取り締まりを巡って議会はまず大荒れになった。衆議院議員・中野正剛が「戦時宰相論」を朝日新聞に出し、自決に追い込まれる('43年)。'44年2月の毎日新聞に東條批判の論説が事件化した。「勝利か滅亡か・・」「竹槍では間に合わぬ・・・」の記事に東條が激高した。
戦時中の日本では、精神力鼓吹の宣伝が、小学生であった私もよく記憶しているほどに行われた。必勝祈願の朝参り、柔道、剣道の真似事から生徒の軍人教育までいろいろあった。しかし東條にとっての対米戦争は「精神力対物質力」という、敗戦後に人口に膾炙した単純かつ非論理的な図式に基づく戦争だったのではない。'43年から'44年にかけての対米戦争が、陸海軍ともに飛行機とその「量」主体の総力戦へと化していたことは明らかである。そんな認識の下でなぜ開戦?の疑念は最後まで残ったが。
'44年3月には少年飛行兵に対し東條は「敵機は精神で墜とすのである」と訓示した。精神を物的戦力の欠くべからざる補完物とみなし始めていた。参謀本部は航空機による体当たり攻撃(特攻)の実施を決定する。サイパンが'44年7月に玉砕。反東條気運が、島田海軍大臣・軍令部総長の辞任要望から盛り上がる。重臣間に東條不信が広がり、宮家への働きかけが活発になる。
東久邇宮−近衛文麿、岡田啓介らは、皇室に累が及ぶのを恐れ、東條に全責任を取らせる方向を模索する。重臣のなかでは近衛文麿が反東條の先頭に立っていた。'44年7月の翼政会代議士会は「倒閣大会」の観を呈する。しかし倒閣即和平ではなく、敵に一撃を加えて有利な体勢にしてのち、講和を目指すというご都合主義の甘さが「世論」を覆っていたようだ。
内閣は同月総辞職。東條の陸将留任希望は入れられなかった。天皇には東条内閣更迭の積極的な意志はなかった。天皇はかなり東條に好意的で、見事に「籠絡」されていたという見方も立ちそうだ。皇族に対する手練手管がいくつか述べてある。小磯内閣となり、東條の腹心は次々と戦地へ「左遷」された。
「第六章 敗戦から東京裁判へ」は東條の徹底抗戦論の最後の足掻きから始まる。無条件降伏で和平推進派の近衛文麿は自決。のちの東京裁判で歴史の一方の証人になってほしかった。東條は自決失敗。敗戦前自決の決意と裁判における日本の国体の弁護の2つの路を語っていたという。MPが来たとき頭を撃たずに心臓を撃ったそうだが、軍人としての面目と日本の申し開きの両面を追うために、あえて外して撃ったのかとも私には思える。東條の東京裁判における主張は、「自存自衛(自衛戦争)」と「東亜の解放(大東亜共栄圏の正当化)」である。
すべてを東條自身の責任とし、いかなる場合も「天皇に累を及ぼさない」忠臣思想は徹底して守った。共産圏との対立が険悪化した情勢変化の下の米国の方針が天皇戦犯論回避であったのが幸いした。開戦の決心を最終的に天皇に言上したのは、東條、杉山参謀総長、永野軍令部総長の3名で、キーナン検事が問いただしたとき、自決、病死で生き残っていたのは東條だけであったことも幸いした。天皇は平和愛好だったが、臣下の答申を裁可しなかった例はない、開戦もその例外でないという主張で通した。東條は獄中の繰り言として、統帥権が陸軍においてすら限定的で、まして海軍に対しては遠く及ばなかったと言っていた。
占領下では占領軍のCIS(民間諜報局)が私信を開封、検閲していた。東條の弁論は日本の正論と受け止められ、東條賛美の声が高まった。占領軍総司令部のCIE(民間情報教育局)は、これまでの日本人に戦争の罪を自覚させるための「ウォー・ギルト・プログラム」の強化を検討した。しかし判決の頃には賛美も下火になっており、早期講和を急がねばならぬ米国の立場があって、日本人再教育は取り下げになったらしい。
刑場に曳かれるとき念仏の声が絶えなかった。最後は仏教に帰依していた。
東條の大戦形勢逆転後から処刑までを見てきた。統帥権を持った軍人は、古今東西を問わず、民衆にとって常に脅威である。東條に、日本民族への狂信的信頼(敗戦後の反省に民族に裏切られたという発言が出ている)と、狭隘な世界観を持たせてしまった背景についての記述を追ってみよう。それは主に「第一章 陸軍士官になる」に記載されている。
祖父は盛岡藩士だった。明治維新で盛岡藩は没落。父は下士官養成学校から順調に軍人の出世コースを歩く。陸軍大学校の1期生となり首席で卒業、33歳で単身でドイツに留学、3年で帰国してから参謀本部にあって日清戦争を経験。中将で予備役編入。母は東京女子大中退。祖父母とは同居したことはなかった。祖母と母の関係は険悪であった。それに反し父母の作る家庭は円満だった。英機の頃は東條家は軍人一族になっていた。父系の影響者もほとんどが軍人であった。
英機は学習院初等科に1年あまり、城北中学に2年あまり在学したことはあるが、あとの学歴はすべて陸軍関係の学校である。幼年学校で「天皇陛下に命を捧げる」信念をたたき込まれる。それを1年後輩の山中峯太郎(中尉で依願退役した小説家、彼の「敵中横断三百里」は読んだ記憶がある。)が描写しているそうだ。士官学校を速成卒業して21歳で歩兵少尉に任官、しかし日露戦争には間に合わなかった。少尉でも俸給は帝大卒業生に引けを取らぬ高給であったという。
戦後デモクラシーが英機の心情に重要な影響を与える。英機は一次大戦後のヨーロッパ調査団の1人としてドイツに派遣された。長期派遣であった。政略と戦略の調和が学ばれる。1次大戦が国家をあげての総力戦で、軍事力を支える経済力が重要な役割を果たすことは、すでに我が国軍部では認識されていた。大正政変では陸軍は政治的敗北を喫した。民衆の力や動向を軽視する政治は困難になった。産業を担う国民の掌握誘導が、実力をつけた斯界の台頭と相まって「デモクラシー」的姿勢の必要性を認識させた。
今次戦中の首相の「平民派」プロパガンダの具体的な姿は本書のあちこちに出ている。「はじめに」の冒頭には、首相が札幌視察の時、ゴミ箱から菜っ葉の切れ端をつまみ出し、この葉は食えないのかと訊ねたという記事が、"東條さんの裏口視察"と題して「読売」に出たと紹介している。
脱線だが本書には当時の3大新聞の内の「朝日」「毎日」には反東條の記事が、言論統制の憲兵の目をかいくぐって、おそらく決死の思いで掲載された事実が引用されていることは、すでに紹介したが、「読売」にはそんな引用が一切ない。今日でもそうだが、読売の「いつも主流派」主義は当時からのものといえそうだ。サンデー毎日10/25号に「新聞の「党派性」露わに 毎日、朝日vs読売、産経」なる記事が出た。
総力戦の認識は、物力劣勢を補う精神力「必勝の信念」重視へ傾く。「精神的威力」を「大本」となし「物的威力」を「根幹」とするバランスある合理性重視から出発した草案であったが、'27年の各兵操典では合理性重視は否定され精神力優位に置き換わった。経済格差にのうのうとしていたわけではない。軍は軍備の近代化機械化に懸命になる。東條動員課長時代の兵站の自動車化は前進した。しかしそれは輸入車に負んぶせねばならなかった。
私は動物番組が好きである。「ワイルドライフ▽アフリカ オカバンゴ大湿地 リカオン 驚異の狩りの秘密に迫る」は、個体としては非力なイヌ科のリカオンが、団結力と形成判断で、多様な食うか食われるかの世界を生き抜く姿を映した。圧倒的な狩りの成功率を誇り、敵の力を侮らず恐れずに子孫を残す。一手間違えれば東條の道になる。なんだか平和憲法、平和憲法とお題目を唱えればすべてが収まるような超楽観論が、いかに頼りないものかを諭しているように思われた。
「第二章 満州事変と派閥抗争」、「第三章 日中戦争と航空機」、ことに「第四章 東条内閣と太平洋戦争」は、私の年層には生身で体感した日本史である。後世の人(著者)にあらためての講釈を受けるまでもないと思うので、今回は読まなかった。
東條の歩兵第一連隊長時代のエピソードに、除隊兵の就職の世話を載せている。今日の派遣者のコロナ遭遇と同じで、除隊兵は解雇状態だった。祖先からの古武士の風格も併せ持っていた東條英機の人となりを語るものとして、最後に引用しておこう。

('20/10/13)